計画の露見と失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 00:32 UTC 版)
ワトソンは計画の決行日を6月24日とした。これは聖ヨハネの日であり、特に重要なのが宮廷において式典が営まれる首飾り章の日(collar day)でもあったことだった。 この日や夏至が近づくと、ジェラード神父はスコットランドの廷臣を介して王に陰謀を気づかせようとした。また、潜伏生活を送りながらも、イングランドにおける世俗司祭の公式の責任者であったブラックウェルもまた同様に遠回しな通報をしようとしていた。ブラックウェルの方がジェラードのやり方よりも秀でていた。ブラックウェルが当局に伝達した方法は、トマス・コプリー卿の娘であるマーガレットと結婚した国教忌避者のジョン・ゲージを介するというものであった。6月28日にゲージがロバート・セシル宛に手紙を書いた時には、既にセシルは陰謀に気づいていた。一方カトリックの帰国亡命者で計画の一味であったアンソニー・コプリー(英語版)もまた計画の中身についてブラックウェルに手紙を書いていた。彼はトマス・コプリーの息子であり、ゲージの義兄弟であった。ブラックウェルとゲージのやり取りは、セシルに裏になにかあると考えさえ、ゲージにブラックウェルを評議会に引き出すように依頼した。このため、アンソニーは意図的に二重スパイを演じていたという説がある。 結局、グレイはその日のうちに計画から降り、犯人たちは散り散りになってしまった。 一連の経緯における重大な出来事は、7月にロンドン塔にいたジョージ・ブルック(英語版)が逮捕されたことであった。マーカムとブルックは現在の枢密院のメンバーに取って代わることを画策しており、またブルックの兄である第11代コバム男爵ヘンリー・ブルック(英語版)は、より重大なメイン陰謀事件の共謀者であった。ジョージは7月15日に召喚され、その際、無実を証明しようとして捜査官に2つの異なるグループによる陰謀があったことを告白してしまった。7月16日には、ワトソンの逮捕状が布告された。この頃のバンクロフトは、ワトソンと距離を置いた正当な理由があり、女王が亡くなる前から会っていないと主張した。 ジェームズの戴冠式は、予定通り、彼の聖名祝日にあたるヤコブの日である7月25日に行われた(ジェームズ(James)はヤコブ(Jacob)に由来する名前)。しかし、儀典として行われる予定であったロンドン入城は、ペストなどの理由で見合され、1604年3月に延期された(当時、ウェストミンスターはロンドンの区画外であった)。
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