バルカン遠征、ローマ教皇との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 06:20 UTC 版)
「ユスティニアノス2世」の記事における「バルカン遠征、ローマ教皇との対立」の解説
対イスラーム戦線が安定したことで、ユスティニアノス2世は祖父のコンスタンス2世と同様、バルカン半島での勢力回復を目指した。688年にはスクラビニア遠征を行う。この時の最終目的地はテッサロニキだったので、コンスタンティノポリスとテッサロニキの間の、ストリュモン川流域のスラブ人やブルガール人に対する軍事行動であったと考えられる。この時捕虜にしたスラブ人を小アジア半島に移住させ、軍隊として組織した。ただしユスティニアノスはこの遠征の帰途にブルガール人の襲撃を受け、辛くも逃走している。 ユスティニアノス2世は691年-692年にはコンスタンティノポリスの宮殿の「トゥルロ(かたつむり)の間」で教会会議を開催する(トゥルロの公会議)。これは父のコンスタンティノス4世が開催した第3コンスタンティノポリス公会議の補遺を目的としたものである。この時古代ギリシア的な信仰や慣習の禁止や、イコン崇拝の承認などが決定されている。しかしローマ教皇・セルギウス1世はこの会議の議決に反対したので、ユスティニアノスは彼を逮捕しようとした。だがローマ市民などの強力な反対によって失敗している。
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