バルカン諸国との戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 06:18 UTC 版)
「イムレ (ハンガリー王)」の記事における「バルカン諸国との戦争」の解説
1200年頃からハンガリー王国はバルカン半島の情勢に深く関わるようになっていた。1200年10月11日にインノケンティウス3世はイムレに異端と見なしていたボスニア教会の弾圧を促しており、教皇はイムレの要請に応じてセルビア王ステファン・ネマニッチへの戴冠を拒否した。1201年/02年にイムレはセルビアに進攻し、ステファンと対立する彼の弟のヴカシンを支援した。イムレはセルビアに宗主権を行使し、1202年にハンガリーの君主として初めて「セルビア王」の称号を使用する。 1202年夏、ヴェネツィア共和国のドージェ・エンリコ・ダンドロは第4回十字軍の指導者との間に交わした条約に調印し、ヴェネツィアは十字軍からハンガリーの勢力下に置かれていたダルマチア地方の都市ザダル奪回の支援の約束を取り付ける。インノケンティウス3世が十字軍にザダルの包囲を禁じたのにもかかわらず、1202年11月24日にザダルは十字軍によって占領され、町はヴェネツィアに譲渡される。インノケンティウス3世はイムレの訴えに応じてヴェネツィアと十字軍を破門するが、ザダルはなおもヴェネツィアの支配下に置かれていた。 ハンガリーがボスニア教会への弾圧を行う中、1203年4月6日にボスニアのバン・クリンはゼニツァでボスニア教会の教会会議を開催する 。合議の結果ボスニア教会はローマ教皇の優位を認めるとともに、教会の儀式の改革を決定し、クリンはハンガリー王国の宗主権を承認した。1203年にブルガリア皇帝カロヤン・アセンがインノケンティウス3世に宛てた書簡には、イムレによってブルガリアの5つの地域が占領されたため、ブルガリアが教皇に介入を要求したことが記されている。
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