第二次太田城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 07:28 UTC 版)
「太田城 (紀伊国)」の記事における「第二次太田城の戦い」の解説
羽柴秀吉軍が太田城に攻城した時には、6万兵とも10万兵とも呼ばれている。しかし、太田衆と根来衆の残存兵力を合わせてもわずか3千-5千兵で、この時雑賀衆の一部は羽柴秀吉軍と手を結び、また総本山であった根来寺も焼かれ、孤立無援の状況であった。しかし、太田左近は城兵に対して士気を鼓舞していた。 羽柴秀吉軍は堀秀政が率いる先陣3千兵と長谷川秀一が率いる第二陣3千兵の合計6千兵の斥候隊を繰り出して太田城へ向けて攻撃を開始した。田井ノ瀬橋付近から紀ノ川を渡河したが、そこに太田城からの待ち伏せがあり鉄砲隊と弓隊から攻撃され53名が討ち取られた(別説では51名ともある)。斥候隊の敗北により容易には攻め切れずとみたのか水攻めに切り替えた。 同年3月25日(28日という説もあり)、紀の川の水をせき止め、城から300m離れた周囲に堤防を築いた。300mというのは鉄砲の射程距離と思われている。堤防の高さは3-5m、幅30mで東の方は開け、6kmにも及んだと言われている。工事に要した人数は46万92百名。昼夜突貫工事で6日間で仕上げたと思われている。同年4月1日より水を入れ始め、4月3日から数日間大雨が降り続け、水量が増し始めた。そのため城の周りは浮城のような状態になった。羽柴秀吉軍は太田城から北1kmの黒田という場所に本陣を構えたと言われているが、跡に関しては明らかになっていない。 水で囲まれた太田城に羽柴秀吉軍は中川藤兵衛に13隻の安宅船で攻めさせた。船の先端には大きな板を建てて、鉄砲や弓矢から攻撃から守るため改造したが、太田城の城兵の中で水泳の名手を選び、船底に次々と穴をあけ沈没させ、また押し寄せる攻城兵には鉄砲で防戦した。また同年4月9日、松本助持が切戸口間の堤防150間決壊させ、宇喜多秀家の陣営に多くの溺死者を出した。この時羽柴秀吉軍は60万個の土俵を使って数日に堤防を修復したと伝わっている。 太田城では、増水するにつれて工夫して防衛してきたが、1カ月になる籠城に次第に物心両面で衰えが見え始め、同年4月24日蜂須賀正勝・前野長康の説得に応じて、太田左近をはじめ53名が自害した。根来寺落城から1カ月の事であった。53名の首は城の三箇所に埋められた。現在玄通寺の近くに「小山塚」という大きな碑が建っているが、3つのうちの1つとなっている。 またこの時の戦いの様子を宣教師ルイス・フロイスがイエズス会に送付した書簡に書き記している。 残った城は、最も重要なオンダナシロと称するもののみとなったが、この城は一つの市の如きもので、雑賀の財宝は悉くここに集め、根来ならびに雑賀の重立った諸将等もここにいた。軍需品・兵士及び糧食は、非常に多量で、日本の常食である米のみでも二〇万俵を超えたということである。而してこの城ははなはだ強固で、四方に十分の備えがあったので、突撃によって攻め入れることは困難とされた。よって、羽柴筑前殿は、甚だ高く、かつ厚い土壁をもってこれを囲み、彼等が防禦と頼んだ水多き大河をその中に引き、これによって敵を溺死せしめんと決した。而して、そのため軍隊の諸将にこの土壁を負担させた。壁の厚さは二〇ブラサ以上、高さ六ブラサを有し、城より銃を発しても害をなすこと能わざる距離に在った。同所より来た者の言によれば、この壁は周回二レグワあった。城内の者はこれを見て、堀に接して対壁を作り、水の城内に入ることを防がんとした。その後、秀吉は海の司令官アゴスチニョに命じて、船で攻撃したので、城内の者も抗し得ず、遂に降伏した。 — イエズス会日本年報 この文中にあるオンダナシロ(Ondanaxiro)とは太田城の事で、海の司令官アゴスチニョとは小西行長の事ではないかと思われている。
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