エル・テムルとは? わかりやすく解説

エル・テムル

名前 Entemür

エルテムル

名前 Entemür

エル・テムル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/26 06:03 UTC 版)

エル・テムルモンゴル語: El temür, ? - 1333年)は、大元ウルス後期の将軍。キプチャク親衛軍を率いる軍閥で、1328年天暦の内乱に勝利してカアンを擁し、独裁権力をふるった。

『元史』などの漢文史料では燕鉄木児(yàntiēmùér)と記される。

概要

来歴

もとモンゴル帝国モンケによって征服されたキプチャクの部族長の家柄で、祖父トトガクはモンケの弟クビライに仕えてシリギの乱ナヤン・カダアンの乱といったモンゴル帝国内の内乱鎮圧に活躍した。父のチョンウルもクビライの曾孫カイシャンが王族時代にカイシャンを助けてオゴデイ・ウルスカイドゥを破るのに大きな功があったが、このとき少年だったエル・テムルも父に従ってカイシャンの幕下にあってカイシャンの寵愛を受け、カイシャンが即位すると知宣徽院事を経て左親軍都指揮使に昇進した。その後もキプチャク軍閥の司令官として軍中に重きをなし、泰定帝イェスン・テムルの治世には軍政機関の枢密院の要職である僉枢密院事にのぼる。

天暦の内乱

致和元年(1328年)夏にイェスン・テムルが夏の都上都で急死したとき、エル・テムルは子飼いのキプチャク軍団とともに冬の都大都に駐留して留守を守っていた。もともとカイシャン恩顧の将軍であって、イェスン・テムルの側近ダウラト・シャーらの専制をこころよく思っていなかったエル・テムルは、この機会をとらえてカイシャンの遺児を即位させることをもくろみ、反乱を起こして大都の政府機関を接収した。エル・テムルはその軍事力によって大都駐留の軍隊と官僚を味方につけると、カイシャンの次男トク・テムルを抑留先の江陵から迎えいれ、遠方にいる兄のコシラの到着を待ってカアン位を譲り渡そうと主張するトク・テムルを説得してカアンに即位させた。エル・テムルは擁立の功をもって開府儀同三司、上柱国、録軍国重事、中書右丞相、監修国史、知枢密院事に任ぜられ、さらに太平王の王号まで授けられてトク・テムルの政府の最高実力者となる。

時にダウラト・シャーらは上都に留まったままイェスン・テムルの遺児アリギバを即位させたので、元はふたつの首都を南北に分けた内戦となった。しかしエル・テムルが大都に進軍してきた上都側の軍を迎撃して打ち破ると遼東にいた王族が大都側について上都を包囲し、ついにアリギバとダウラト・シャーを降伏させた。大都側の勝利によって中国各地の諸軍はトク・テムルとエル・テムルに従ったが、今度はアルタイ山脈を越えてチャガタイ・ウルスに亡命していたトク・テムルの兄コシラがモンゴル高原に入り、旧都カラコルムで高原の諸王族・有力者の支持を取り付けてカアン位を要求した。

天暦2年(1329年)4月、エル・テムルは自ら高原に赴いてコシラに謁し、玉璽を奉じてカアンに推戴した。コシラは政権奪取の功を賞してエル・テムルに軍権の最高官である太師の称号を贈り、トク・テムルを皇太子としたが、8月に上都の郊外で兄弟会見した直後に急死した。コシラの側近たちに政権を奪われることを恐れたエル・テムルが毒殺したと言われる。皇太子トク・テムルはすぐさまカアンに復位し、コシラの側近たちはエル・テムルによって追放、処分された。

トク・テムルの朝廷のもと、エル・テムルはさまざまな特権を与えられ、カアンをまったくの傀儡とする権力者として君臨した。エル・テムルはイェスン・テムルの未亡人を自ら娶り、トク・テムル・カアンの長男エル・テグスを自邸で養育し、かわりにエル・テムルの子がカアンの養子として宮廷で育てられた。また、コシラの長男トゴン・テムルを実はコシラの子ではないと称し、高麗に追放した。 [1]

晩年

至順3年(1332年)、トク・テムルは29歳の若さで死亡するにあたり、兄コシラの子を即位させるように遺言した。しかしそれにもかかわらず、エル・テムルは自身の養い子であるエル・テグスを即位させようと試み、トク・テムルの未亡人でエル・テグスの母であるブダシリにエル・テグス擁立を提議した。しかし、ブダシリは亡夫の遺志を尊重してコシラの子を立てることを要求したので、エル・テムルはコシラの次男でわずか7歳のイリンジバルを即位させ、自らはその摂政となったが、幼帝イリンジバルは即位からわずか43日後に亡くなった。

ここにおいてエル・テムルは再びエル・テグス擁立をブダシリに要請したが、ブダシリは我が子が幼いことを理由に断ったので、エル・テムルはやむなく広西に流されていたイリンジバルの兄トゴン・テムルを呼び戻すことに同意した。トゴン・テムルが大都に至ると、エル・テムルはこれを出迎えて大都まで馬を並べて歩みながら今後のことを話したが、トゴン・テムルはエル・テムルを恐れて黙り込んだままだった。これを見たエル・テムルはトゴン・テムルが思い通りにならないことを恐れ、即位の式を先延ばしにしたが、その3か月後の至順4年(1333年)4月に病死した[2]

エル・テムルの死後も、その弟サトン、次いで子のタンキシュが中書左丞相となり、また娘のダナシリはトゴン・テムル・カアンの皇后となってエル・テムル家の権勢は続いた。しかし、行政機関中書省の長官である中書右丞相にはエル・テムルに協力した軍閥バヤンが就任し、バヤンが政権の最高実力者として振舞っていた。元統3年(1335年)、左丞相タンキシは右丞相バヤンから政権を取り戻そうとして反乱を起こしたが、バヤンによって鎮圧された。タンキシュをはじめエル・テムルの一門は皇后ダナシリを含めてすべて殺害され、大元ウルスで権勢をふるったエル・テムル家のキプチャク軍閥はエル・テムルの死からわずか2年後に滅亡した[3][4]

キプチャク部クルスマン家

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 佐口1971,193-198頁
  2. ^ 佐口1971,201-203頁
  3. ^ 佐口1971,204-205頁
  4. ^ 宮2018,392-395頁

参考文献

  • 太田彌一郎「元代の哈剌赤軍と哈剌赤戸」『集刊東洋学』第46号、1981年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • C.M.ドーソン著/佐口透訳注『モンゴル帝国史 3巻』平凡社、1971年

エル・テムル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:56 UTC 版)

ボオルチュ」の記事における「エル・テムル」の解説

五族譜』「クビライ・カアンの御家人一覧」に記される人物で、「ボオルチュ・ノヤンの息子であり……その父のボオルチュ地位彼に委ねた」と記されるアジュル同様ボオルチュ息子とするには活躍年代が遅すぎ、また他の史料記載がないなど不明な点の多い人物また、同じく五族譜』「クビライ・カアンの御家人一覧」には「ブラルダイ:イルカトミシュの息子……エル・テムルの後、ボオルチュ・ノヤンの地位彼に委ねた」とも記され、ブラルダイなる人物がエル・テムルの地位継承した記されている。

※この「エル・テムル」の解説は、「ボオルチュ」の解説の一部です。
「エル・テムル」を含む「ボオルチュ」の記事については、「ボオルチュ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「エル・テムル」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エル・テムル」の関連用語

エル・テムルのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エル・テムルのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエル・テムル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのボオルチュ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS