天暦の内乱とは? わかりやすく解説

コシラ

(天暦の内乱 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/26 14:34 UTC 版)

コシラ
ᠬᠦᠰᠡᠯᠡᠨ
モンゴル帝国第13代皇帝(カアン
在位 天暦2年1月28日 - 8月6日
1329年2月27日 - 8月30日
別号 ᠬᠤᠲᠤᠭᠲᠤ ᠬᠠᠭᠠᠨ Qutuqtu Qa'an
護都篤皇帝
クトクト・カアン(中期音)
ホトクト・ハーン(近現代音)

出生 大徳4年11月11日
1300年12月22日
死去 天暦2年8月6日
1329年8月30日
オングチャド
埋葬 起輦谷/クレルグ山モンゴル高原
配偶者 バブシャ
子女 トゴン・テムルイリンジバル
家名 クビライ家
父親 カイシャン
母親 イキレス氏(仁献章聖皇后)
テンプレートを表示
明宗 奇渥温和世㻋
第9代皇帝
王朝
在位期間 天暦2年1月28日 - 8月6日
1329年2月27日 -8月30日
都城 カラコルム
諡号 翼献景孝皇帝
順天立道睿文智武大聖孝皇帝(尊号)
廟号 明宗
生年 大徳4年11月11日
1300年12月22日
没年 天暦2年8月6日
1329年8月30日
武宗
仁献章聖皇后
后妃 大皇后八不沙
陵墓 起輦谷
年号 天暦 : 1329年

コシラモンゴル語ᠬᠦᠰᠡᠯᠡᠨ、Qošila、漢字:和世㻋[1]1300年12月22日 - 1329年8月30日)は、モンゴル帝国の第13代カアンとしては第9代皇帝)。第7代カアンの武宗カイシャンの長男。

生涯

父のカイシャンが即位すると、皇太子に立てられた叔父のアユルバルワダの次代のカアンに定められたが、至大4年(1311年)のカイシャン急死後、祖母のダギと中書右丞相テムデルらダギの実家コンギラト部族に連なる派閥が政権を掌握し、コンギラト部族の女性を母としないコシラにかわってアユルバルワダの子のシデバラ皇太子に立てられた。周王に封ぜられたコシラは辺境の雲南に送り出されたが、配地に向かう途中陝西で謀殺されかけたため、中央アジアチャガタイ・ウルスに逃亡した(トガチの乱)。

カアンに即位した英宗シデバラが暗殺され、暗殺者も次のカアンとなった泰定帝イェスン・テムルによって一掃されたことによってコシラを排斥したテムデルの一党は政権から排除されていたが、コシラはそのまま中央アジアに留まり、かつて父のカイシャンが懐寧王だった時代に駐留していたアルタイ山脈西麓方面で自立勢力を固めていた。

致和元年(1328年旧暦7月にイェスン・テムルが崩御すると、上都でイェスン・テムルの遺児のアリギバを擁立した左丞相ダウラト・シャーを中心とするイェスン・テムル政権派と、大都でコシラの弟のトク・テムルを擁立したキプチャク軍閥のエル・テムルアスト軍閥のバヤンらを中心とする旧カイシャン政権派による内乱が起こり、ゴビ砂漠以南の諸王・貴族・軍閥の支持を集めた大都側が勝利した。一方、内乱開始の報を受けたコシラは、中央アジアの諸王の後援を受けてアルタイ山脈を越え、モンゴル高原に入った。モンゴル高原の諸王族、有力者たちはコシラを正統なカアン位の継承者と認めて旧都のカラコルムに迎え入れ、コシラは高原のモンゴル遊牧騎馬軍団の圧倒的な軍事力を背景に、既にカアンに即位していた弟のトク・テムルに圧力をかけた。

大都のトク・テムル政権は名目上はより有力なコシラと戦うことを諦め、コシラにカアン位を譲ることを宣言した。年があけて天暦2年(1329年)春、まずトク・テムルのもとで政府首班の中書右丞相となっていたエル・テムルが皇帝の玉璽を携えてモンゴル高原に赴き、大都側がコシラを歓迎して迎え入れる意を明らかにした。トク・テムルは改めて皇太子を名乗り、カアンを称したコシラは上都に向かった。

8月1日、コシラは上都近郊のオングチャド(王忽察都)に至って行営を張り、翌日より皇太子トク・テムル以下王族・大臣を集めて宴会を行ったが、8月5日になって突如営中没した。コシラの側近に集ったチャガタイ一門やモンゴル高原の王族・有力者によって権勢を奪われることを怖れたエル・テムルが先手を打って毒殺したとみられる。

イェスン・テムルの死からコシラの死、トク・テムルの復位までの1年間の一連の騒乱をトク・テムルの元号をとって「天暦の内乱」という。天暦の内乱の後はキプチャク軍閥のエル・テムル、その死後にはアスト軍閥のバヤンが独裁権を握り、元末の軍閥政権時代が幕を開けることになる。

后妃・皇子女

脚注

  1. ^ 王偏に束。

参考文献


天暦の内乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:53 UTC 版)

エル・テムル」の記事における「天暦の内乱」の解説

致和元年1328年)夏にイェスン・テムルが夏の都上都急死したとき、エル・テムル子飼いキプチャク軍団とともに冬の都大都に駐留して留守守っていた。もともとカイシャン恩顧将軍であってイェスン・テムル側近ダウラト・シャーらの専制こころよく思っていなかったエル・テムルは、この機会とらえてカイシャン遺児即位させることをもくろみ反乱起こして大都政府機関を接収したエル・テムルはその軍事力によって大都駐留軍隊官僚味方につけると、カイシャン次男トク・テムル抑留先の江陵から迎えいれ、遠方にいる兄のコシラ到着待ってカアン位を譲り渡そう主張するトク・テムル説得してカアン即位させた。エル・テムル擁立の功をもって開府儀同三司上柱国、録軍国重事中書右丞相監修国史、知枢密院事に任ぜられ、さらに太平王の王号まで授けられトク・テムル政府の最高実力者となる時にダウラト・シャーらは上都に留まったままイェスン・テムル遺児アリギバ即位させたので、元はふたつの首都南北分けた内戦となった。しかしエル・テムル大都進軍してきた上都側の軍を迎撃して打ち破る遼東にいた王族大都側について上都包囲し、ついにアリギバダウラト・シャー降伏させた。大都側の勝利によって中国各地諸軍トク・テムルエル・テムル従ったが、今度アルタイ山脈越えてチャガタイ・ウルス亡命していたトク・テムルの兄コシラモンゴル高原入り旧都カラコルム高原諸王族・有力者支持取り付けてカアン位を要求した天暦2年1329年4月エル・テムルは自ら高原赴いてコシラ謁し玉璽奉じてカアン推戴した。コシラ政権奪取の功を賞してエル・テムルに軍の最高官である太師称号贈りトク・テムル皇太子としたが、8月上都郊外兄弟会見した直後急死したコシラ側近たちに政権奪われることを恐れたエル・テムル毒殺したと言われる皇太子トク・テムルすぐさまカアン復位しコシラ側近たちはエル・テムルによって追放処分された。 トク・テムル朝廷のもと、エル・テムルさまざまな特権与えられカアンをまったくの傀儡とする権力者として君臨したエル・テムルイェスン・テムル未亡人を自ら娶り、トク・テムル・カアンの長男エル・テグス自邸養育しかわりにエル・テムルの子カアン養子として宮廷育てられた。また、コシラ長男トゴン・テムルを実はコシラの子ではないと称し高麗追放した

※この「天暦の内乱」の解説は、「エル・テムル」の解説の一部です。
「天暦の内乱」を含む「エル・テムル」の記事については、「エル・テムル」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「天暦の内乱」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「天暦の内乱」の関連用語

天暦の内乱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



天暦の内乱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのコシラ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエル・テムル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS