乱後の動向とは? わかりやすく解説

乱後の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/26 04:24 UTC 版)

トガチの乱」の記事における「乱後の動向」の解説

コシラ派はトガチ丞相主軸とする大元ウルスへの反抗失敗したものの、ブヤント・カーン政権側でもチャガタイ・ウルス連合したコシラ派に手出し出来ず両者戦況膠着した。やむなくコシラ中央アジアにおいて10数年渡って亡命生活送りその間トゴン・テムルイリンジバルという息子もうけた1233年至治3年)にゲゲーン・カーン(英宗シデバラ)が南坡の変によって暗殺されると、今度は更に遠縁イェスン・テムル即位したコシラ派はイェスン・テムル・カーン政権とは友好的な関係を結び、1325年泰定2年)には使者やり取り始めたまた、1327年にはチャガタイ・カンのイルジギデイコシラ連名でイェスン・テムル・カーンに使者派遣している。 1328年にイェスン・テムル・カーンが死去すると、かつてトガチを討伐したチョンウル息子エル・テムルカイシャン派をまとめ上げて決起し天暦の内乱引き起こしたエル・テムルカイシャンもう一人息子コシラの弟トク・テムル擁立し遂にイェスン・テムル・カーンの息子アリギバ擁立する1派を打倒した。一方内乱勃発聞いたコシラ1派も帝位獲得のため行動起こしチャガタイ・ウルス大兵団の後押し受けてモンゴリア進出した。こうして先んじて首都抑えたトク・テムル派とモンゴリア抑えたコシラ派という、かつてのカイシャン派とアユルバルワダ派の対立再現したような形となり、かつてのように軍事的に勝るコシラ帝位を得ることになった。しかし、トク・テムル擁するエル・テムルらは本気でコシラ政権を譲る気はなく、かつてカイシャン中都築こうとしたオングチャドの地でコシラ毒殺したコシラ即位後押ししたチャガタイ・ウルスエル・テムルから莫大な見返り受けて撤退し、ここに「トガチの乱」より続くコシラ勢力瓦解した

※この「乱後の動向」の解説は、「トガチの乱」の解説の一部です。
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