トガチの乱とは? わかりやすく解説

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トガチの乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 06:59 UTC 版)

トガチの乱(トガチのらん、脱火赤の乱)は、大元ウルスの皇族コシラを擁立するトガチ丞相らがブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)政権に対して延祐4年(1317年)に甘粛・陝西一帯で起こした叛乱。帝位(カアン位)を巡るカイシャン家とアユルバルワダ家の対立から生じた内乱の一つで、「トガチの乱」そのものは短期間で鎮圧されたもののブヤント・カアン政権はコシラを擁する一派そのものを排除することはできず、後に天暦の内乱においてコシラが即位する遠因となった。また、「トガチの乱」の勃発によってチャガタイ・ウルスと大元ウルスの軍事衝突(アユルバルワダ・エセンブカ戦争)がチャガタイ家側にとって有利な形で終結し、この時定まった両勢力の国境線は後々まで引き継がれた。


  1. ^ 杉山 1995, p. 102-103.
  2. ^ 『元史』巻27明宗本紀,「明宗翼献景孝皇帝、諱和世㻋、武宗長子也。……成宗崩、十一年、武宗入継大統、立仁宗為皇太子、命以次伝於帝」
  3. ^ トガチがキプチャク軍団長であったことは、『元史』仁宗本紀で「欽察親軍都指揮使」と称されていることから確認できる(『元史』巻24仁宗本紀1,「[至大四年三月]是月……知枢密院事牀兀児、欽察親軍都指揮使脱火赤抜都児、中書右丞相」)
  4. ^ この頃のアルタイ方面駐屯軍の布陣については『オルジェイトゥ史』に詳細な記述がの残されており、杉山正明が訳注を発表している(杉山 2004, p. 336-338)
  5. ^ 杉山 1995, p. 104-105.
  6. ^ クルク・カアンは即位直後の至大元年(1308年)7月にチャガタイ・ウルスのコンチェク、ジョチ・ウルスのトクト、フレグ・ウルスのオルジェイトゥに使者を派遣しており、ジョチ・ウルスおよびフレグ・ウルス君主と同格の扱いを受けたことは新興のチャガタイ系ドゥア家にとって自らの権力の正当性を主張する上でまたとない政治的効果を得たと見られる(杉山 1995, p. 106-107。『元史』巻22武宗本紀1,「[至大元年秋七月]壬申……遣塔察児等九人使諸王寛闍、遣月魯等十二人使諸王脱脱。癸酉……遣脱里不花等二十人使諸王合児班答」)
  7. ^ 杉山 1995, p. 115-117.
  8. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐三年冬十月]丁丑、封脱火赤為威寧郡王、賜金印、忽児赤鉄木児不花為趙国公」
  9. ^ 『元史』巻116列伝3答己伝,「順宗昭献元聖皇后名答己、弘吉剌氏、按陳孫渾都帖木児之女。……太后見明宗少時有英気、而英宗稍柔懦、諸群小以立明宗必不利於己、遂擁立英宗」
  10. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐二年冬十月]丁酉、加授鉄木迭児太師」
  11. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐二年十一月]甲戌、封和世㻋為周王、賜金印」
  12. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐三年三月]甲寅……護送周王之雲南。置周王常侍府、秩正二品、設常侍七員、中尉四員、諮議・記室各二員。置打捕鷹坊民匠総管府、設官六員。断事官八員。延福司・飲饍署官各六員。並隷周王常侍府」
  13. ^ 『元史』巻27明宗本紀,「武宗崩、仁宗立、延祐三年春、議建東宮、時丞相鉄木迭児欲固位取寵、乃議立英宗為皇太子、又与太后幸臣識烈門譖帝於両宮。浸潤久之、其計遂行。於是封帝為周王、出鎮雲南。置常侍府官属、以遙授中書左丞相禿忽魯・大司徒斡耳朶・中政使尚家奴・山北遼陽等路蒙古軍万戸孛羅・翰林侍講学士教化等並為常侍、中衛親軍都指揮使唐兀・兵部尚書賽罕八都魯為中尉、仍置諮議・記室各二員、遣就鎮」
  14. ^ 杉山 1995, p. 124-125.
  15. ^ 『元史』巻27明宗本紀,「是年冬十一月、帝次延安、禿忽魯・尚家奴・孛羅及武宗旧臣釐日・沙不丁・哈八児禿等皆来会。教化謀曰『天下者我武皇之天下也,出鎮之事,本非上意,由左右搆間致然。請以其故白行省、俾聞之朝廷、庶可杜塞離間、不然、事変叵測』。遂与数騎馳去。先是、阿思罕為太師、鉄木迭児奪其位、出之為陝西行省丞相、及教化等至、即与平章政事塔察児・行台御史大夫脱里伯・中丞脱歓、悉発関中兵、分道自潼関・河中府入。已而塔察児・脱歓襲殺阿思罕・教化于河中、帝遂西行、至北辺金山」
  16. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐三年]十二月庚午、以知枢密院事禿忽魯為陝西行省左丞相」
  17. ^ 杉山 1995, p. 127-128.
  18. ^ 『元典章』巻2赦罪詔,「延祐四年正月初十日。上天眷命、皇帝聖旨……比者忽失剌年属幼弱聴信検人、阿思罕等謀為不軌構乱。我家已為陝西行省行台軍官等将叛賊阿思罕・教化・徹里哥等斬首、以徇其同謀及脅従者欲尽加誅有所不忍……」
  19. ^ 杉山 2004, p. 356-358.
  20. ^ 『元史』巻27明宗本紀,「已而塔察児・脱歓襲殺阿思罕・教化于河中、帝遂西行、至北辺金山。西北諸王察阿台等聞帝至、咸率衆来附。帝至其部、与定約束、毎歳冬居札顔、夏居斡羅斡察山、春則命従者耕于野泥、十餘年間、辺境寧謐」
  21. ^ 杉山正明は(1)「アユルバルワダ・エセンブカ戦争」で劣勢であったチャガタイ・ウルスが盛り返しウイグリスタンを回復した、(2)チャガタイ・ウルスと戦っていた大元ウルス軍の動向が不明となる、(3)大元ウルス西北一帯で「トガチの乱」と呼ばれる動乱が起こる、といった点から「コシラが戦争状態にあった大元ウルス軍とチャガタイ・ウルス軍の間を取り持って停戦させ、両者の協力を得て中央アジアに独自の勢力を築いた」ものと推測している(杉山 2004, p. 52-53)
  22. ^ 杉山 2004, p. 362.
  23. ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐四年二月]丙寅、以諸王部直脱火赤之乱、百姓貧乏、給鈔十六万六千錠・米万石賑之」
  24. ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐四年六月]壬子……安遠王丑漢・趙王阿魯禿為叛王脱火赤所掠、各賜金銀・幣帛」
  25. ^ なお、アルタイ方面駐屯時代にトガチがチュカン(丑漢)に援軍を派遣しようとした記録がある(『元史』巻138列伝25康里脱脱伝,「至大三年……辺将脱火赤請以新軍万人益宗王丑漢、廷議俾脱脱往給其資装。脱脱謂時方寧謐、不宜挑変生事、辞不行。遂遣丞相禿忽魯等二人往給之、幾以激変」)
  26. ^ 赤坂 2009, p. 52-53.
  27. ^ 赤坂 2009, p. 49-51.
  28. ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐四年秋七月]庚辰……賞討叛王有功句容郡王牀兀児等金銀・幣帛・鈔各有差」
  29. ^ 赤坂 2009, p. 54.
  30. ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐五年二月]庚申、罷封贈。賞討叛王脱火赤戦功、賜諸王部察罕等金銀幣鈔有差」
  31. ^ 『元史』巻27明宗本紀,「延祐七年、仁宗崩、英宗嗣立。是歳夏四月丙寅、子妥懽帖木爾生、是為至正帝。至治三年八月癸亥、御史大夫鉄失等弑英宗、晋王也孫鉄木児自立為皇帝、改元泰定。五月、遣使扈従皇后八不沙至自京師。二年、帝弟図帖睦爾以懐王出居于建康。三年三月癸酉、子懿璘質班生、是為寧宗」
  32. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定二年五月]辛未……遣察乃使于周王和世㻋」
  33. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定二年十一月]戊申、周王和世㻋遣使以豹来献」
  34. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年秋七月]乙丑、周王和世㻋及諸王燕只哥台等来貢、賜金・銀・鈔・幣有差」


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