中央アジア状勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/26 04:24 UTC 版)
13世紀後半、中央アジアで台頭したオゴデイ家のカイドゥはチャガタイ・ウルス、アリクブケ・ウルスなどを傘下に置いて「カイドゥの国(カイドゥ・ウルス)」と呼ばれる大元ウルスから独立した王権を中央アジアに築き上げた。13世紀末、クビライが死去しオルジェイトゥ・カーンが立つとこれを好機と見たカイドゥは大元ウルスへ大攻勢に出、一時大元ウルスの軍勢は劣勢に陥った。ここに登場したのがブルガンによって中央から遠ざけるため派遣されてきたカイシャンで、カイシャンは配下の軍団をよくまとめ上げてカイドゥの侵攻を防ぎ、敗退したカイドゥは戦闘中の負傷によって14世紀初頭に亡くなった。 カイドゥを亡くしたカイドゥ・ウルスではチャガタイ家のドゥアが自立してオゴデイ家と手を切り、大元ウルスに協力してオゴデイ家を討つことを申し出た。そこで東からカイシャン率いる元軍が、西からドゥア率いるチャガタイ家軍がイルティシュ河流域のオゴデイ家領に攻め込み、遂に中央アジアにおけるオゴデイ・ウルスは解体された。この時カイシャンの配下で活躍したのがキプチャク軍団長のトガチとチョンウルらで、彼等はイルティシュ戦役の終結後もオゴデイ家残党討伐のためアルタイ方面に駐屯し続けた。 カイシャンは即位後、モンゴリアにおける軍指令の権限を最も信頼おける側近であるオチチェルに委ね、その息子ワイドゥに父と同じ地位を授けてこちらは身近に置いた。オチチェル率いるトガチ、チョンウルら軍団長らは自らを取り立て、指揮したカイシャンに強い忠誠を捧げているという共通点を有していた。一方、チャガタイ家の側でもオゴデイ家討伐で協力し、「新興」のドゥア家を独立したウルスとして承認したカイシャンに好意を抱いており、カイシャンの短い治世の間で大元ウルスーチャガタイ・ウルス間の関係は安定した。このように、かつてカイドゥ・ウルスの討伐という共通の目的を抱いて協力し、これを指揮したカイシャンに好意を抱く2つの勢力がアルタイ山脈を挟んで並び立つという状況が、「トガチの乱」を生み出す前提の一つとなった。
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