中央アジア投下の分割とマンジ(江南)投下の分撥
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「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「中央アジア投下の分割とマンジ(江南)投下の分撥」の解説
クビライは帝位継承戦争に勝利した直後、西方の3人の有力者(ロシア方面を抑えるジョチ家のベルケ、中央アジアを抑えるチャガタイ家のアルグ、イラン方面を抑えるフレグ)に統一クリルタイの開催を呼びかけた。恐らくは、この統一クリルタイではモンケ死後の混乱の中で領有権が争われた地方の権益の再整理(投下の再分配)も行われるはずであったが、そのベルケ・アルグ・フレグが相継いで急死するという不運によって統一クリルタイは開催されないままとなった。更に、中央アジアではアルグの死によって状勢が再び混乱し、オゴデイ家のカイドゥとチャガタイ家のバラクによって中央アジアの諸都市の権益が争われるという混沌とした状態に陥った。そこで、1269年春にカイドゥはジョチ家とチャガタイ家を誘ってタラスでクリルタイを開き、この席上で3家の講和と中央アジアの権益の再確認が行われた。『集史』によるとこのクリルタイで中央アジアの諸都市からの税収の3分の2をバラクが、残りの3分のをジョチ家とカイドゥで分け合う形で合意が形成されたという。本来はハーンのみが行える「支配地の権益(=投下領)の分配」をハーン(クビライ)を無視して行われた点にこそこの会盟の重要な意義があったといえる。これ以後、大元ウルスは中央アジア以西の領地に全く介入できなくなり、完全に西方の3ウルスによって占有されることになってしまう。 一方、クビライはカイドゥらへの対処と並行して南宋の攻略に集中的に取り組み、1276年(至元13年)には遂に南宋の平定をほぼ成し遂げた。ところが、南宋の滅亡と時をほぼ同じくして、北方のモンゴル高原ではクビライに反抗するカイドゥの討伐のため派遣された軍団がクビライを裏切って反乱を起こすという大事件が起こり(シリギの乱)、江南投下の分撥は一時棚上げとなった。マンジ(江南)の投下が分配されたのは南宋滅亡から5年経った1281年のことで、この年はまさに「シリギの乱」がほぼ鎮圧された年であった。江南投下の分撥は基本的に華北投下の分撥をなぞる形で行われたが、この頃の情勢を反映するいくつかの違いが見られる。まず、華北では投下を与えられたが江南では新たに投下を与えられなかった者を見ると、オゴデイ系諸王家(グユク・メリク・クチュ家)、ソゲドゥ家、そしてオイラト王家・スルドス部チラウン家・コンゴタン部ココチュ家などがあった。ソゲドゥ家は叛乱の主導者たるトク・テムルを出しており、オゴテイ系諸王家は言うまでもなくカイドゥへの協力者。そしてオイラト・スルドス・コンゴタンはいずれもシリギの乱に加担したアリク・ブケ王家の有力家臣で、いずれも「シリギの乱」の関係者であった。帝位継承戦争の際、クビライは寛大な態度を示して敵対者の投下を没収するようなことはしなかったが、その寛大な処置が「シリギの乱」を生んでしまったこともあって、江南投下では自らへの反抗者は明確に排除したものとみられる。 一方、江南の中央部にはクビライの諸子が新たに投下を与えられた。この時投下を与えられたチンキム、マンガラ、ノムガンらはそれぞれヒタイ(華北)、タングート(河西)、モンゴルの統括を任じられ、「大元ウルスの三大王国」を形成した。また、王侯に分配された投下の人口・投下の位置は華北投下と同様にモンゴル高原の配分数を参考に設定されていた。人口については、華北投下がモンゴル高原の牧民の約10倍もしくは5倍だったのに対し、それよりもわずか多い1.1倍の人口がそれぞれ割り当てられた。これは、「シリギの乱」などにより一時はカアンとしての地位も危うくなったクビライが、王侯に威厳を示し配下につなぎとめるためであったと考えられている。投下の配置も華北同様にモンゴル高原の配置にならって設定された。元代、江南はおおよそ3つの行省(江淮・江西・湖広)に分割されていたが、東の福建方面に東道諸王の投下が、西の湖広方面に西道諸王の投下が、そして中央の江西にトゥルイ家及び新設のクビライ諸子の投下がそれぞれ設置された。また、「左手(東方)の五投下」の江南投下は湖広南部に配置されているが、これも「五投下」遊牧本領がモンゴル高原南縁にあることを反映している。 江南投下の分撥の結果、東方においてモンゴル王侯は(1)モンゴル高原の本領・(2)華北投下・(3)江南投下の三つの領地領民を有するのが一般的になった。これら三つの「投下」は互いに連携しており、たとえば華北投下出身の人物が江南投下の官吏に任命される、といった事例もみられる。このような関係の中で、華北投下は3つの領地領民を結ぶ結節点としての役割を果たした。反面、江南投下は華北投下に比べて重要度が低く、史料も少ないため、今なお不明な点が多い。
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