中央アジア投下の分割とマンジ投下の分撥とは? わかりやすく解説

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中央アジア投下の分割とマンジ(江南)投下の分撥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:47 UTC 版)

投下 (モンゴル帝国)」の記事における「中央アジア投下分割マンジ江南投下の分撥」の解説

クビライ帝位継承戦争勝利した直後西方の3人の有力者ロシア方面抑えるジョチ家ベルケ中央アジア抑えるチャガタイ家アルグイラン方面抑えるフレグ)に統一クリルタイ開催呼びかけた。恐らくは、この統一クリルタイではモンケ死後の混乱の中で領有権争われ地方権益の再整理投下再分配)も行われるはずであったが、そのベルケ・アルグ・フレグが相継いで急死するという不運によって統一クリルタイ開催されないままとなった。更に、中央アジアではアルグ死によって状勢が再び混乱しオゴデイ家カイドゥチャガタイ家バラクによって中央アジアの諸都市権益争われるという混沌とした状態に陥った。そこで、1269年春にカイドゥジョチ家チャガタイ家誘ってタラスクリルタイ開き、この席上で3家の講和中央アジア権益再確認が行われた。『集史』によるとこのクリルタイ中央アジアの諸都市からの税収3分の2バラクが、残りの3分のジョチ家カイドゥ分け合う形で合意形成されたという。本来はハーンのみが行える「支配地の権益(=投下領)の分配」をハーンクビライ)を無視して行われた点にこそこの会盟重要な意義があったといえる。これ以後大元ウルス中央アジア以西領地に全く介入できなくなり、完全に西方の3ウルスによって占有されることになってしまう。 一方クビライカイドゥらへの対処並行して南宋攻略集中的に取り組み1276年至元13年)には遂に南宋平定をほぼ成し遂げた。ところが、南宋滅亡と時をほぼ同じくして、北方モンゴル高原ではクビライ反抗するカイドゥ討伐のため派遣され軍団クビライ裏切って反乱を起こすという大事件起こりシリギの乱)、江南投下の分撥は一時棚上げとなったマンジ江南)の投下分配されたのは南宋滅亡から5年経った1281年のことで、この年はまさに「シリギの乱」がほぼ鎮圧された年であった江南投下の分撥は基本的に華北投下の分撥をなぞる形で行われたが、この頃情勢反映するいくつかの違い見られる。まず、華北では投下与えられたが江南では新たに投下与えられなかった者を見ると、オゴデイ諸王家(グユク・メリク・クチュ家)、ソゲドゥ家、そしてオイラト王家スルドスチラウン家・コンゴタンココチュ家などがあった。ソゲドゥ家は叛乱主導者たるトク・テムル出しており、オゴテイ系諸王家言うまでもなくカイドゥへの協力者。そしてオイラト・スルドス・コンゴタンはいずれシリギの乱加担したアリク・ブケ王家の有力家臣で、いずれもシリギの乱」の関係者であった帝位継承戦争の際、クビライ寛大な態度示して敵対者投下没収するようなことはしなかったが、その寛大な処置が「シリギの乱」を生んでしまったこともあって、江南投下では自らへの反抗者明確に排除したものとみられる一方江南中央部にはクビライ諸子新たに投下与えられた。この時投下与えられチンキムマンガラノムガンらはそれぞれヒタイ華北)、タングート河西)、モンゴル統括任じられ、「大元ウルス三大王国」を形成したまた、王侯分配され投下人口投下位置華北投下同様にモンゴル高原配分数を参考設定されていた。人口については、華北投下モンゴル高原牧民の約10もしくは5倍だったのに対しそれよりもわずか多い1.1倍の人口それぞれ割り当てられた。これは、「シリギの乱」などにより一時カアンとしての地位危うくなったクビライが、王侯威厳示し配下つなぎとめるためであった考えられている。投下配置華北同様にモンゴル高原配置ならって設定された。元代江南おおよそ3つの行省(江淮・江西湖広)に分割されていたが、東の福建方面東道諸王投下が、西の湖方面西道諸王投下が、そして中央の江西トゥルイ家及び新設クビライ諸子投下それぞれ設置された。また、左手東方)の五投下」の江南投下湖広南部配置されているが、これも「五投下遊牧本領モンゴル高原南縁にあることを反映している。 江南投下の分撥の結果東方においてモンゴル王侯は(1)モンゴル高原本領・(2)華北投下(3)江南投下三つ領地領民有するのが一般的になった。これら三つの「投下」は互いに連携しており、たとえば華北投下出身の人物江南投下官吏任命される、といった事例みられるこのような関係の中で、華北投下3つの領地領民を結ぶ結節点としての役割果たした反面江南投下華北投下比べて重要度低く史料少ないため、今なお不明な点が多い。

※この「中央アジア投下の分割とマンジ(江南)投下の分撥」の解説は、「投下 (モンゴル帝国)」の解説の一部です。
「中央アジア投下の分割とマンジ(江南)投下の分撥」を含む「投下 (モンゴル帝国)」の記事については、「投下 (モンゴル帝国)」の概要を参照ください。

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