中央アジア横断鉄道
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「大東亜縦貫鉄道」の記事における「中央アジア横断鉄道」の解説
この「大東亜縦貫鉄道」計画に先立つ1938年(昭和13年)2月、鉄道省の湯本昇鉄道監察官が「中央アジア横断鉄道計画」というものを発表していた。 それは、かつて「シルクロード」と呼ばれた中央アジアの地域に鉄道を敷設し、日本の同盟国であるナチス・ドイツまで結び、シベリア鉄道に次ぐユーラシアの大陸横断鉄道を目指すというものであった。 計画の背景には、シベリア鉄道はソビエト連邦(ソ連)のものであったため、アジアからヨーロッパへ行く最速ルートであった(この当時、航空機はまだ普及していなかった)にもかかわらず、輸送が政情等に左右されて不安定になりがちだったことから、独自でそれの代替ルートを実現させたらどうかという発案、それにソ連の軍事・思想的脅威(日本の仮想敵国とされていた)に対する抵抗があった。湯本の提案以前にも、南満州鉄道総裁の山本条太郎などがこの鉄道の敷設案を出している。 湯本は、かつてイスラム教徒(ムスリム)の活動によって栄えた中央アジアの区域が、欧米列強の進出によって衰退し、現在に至っても新しい文化産業が起こらない根本的な原因は、交通機関の未発達によると述べ、この鉄道の必要性を訴えた。「旅」の1939年(昭和14年)10月号に掲載された湯本の論文によれば、当時東京・パリ間がシベリア鉄道経由で15日かかるところ、この新鉄道では高性能機関車を用いて10日間で走破できると述べ、さらに周辺各国における振興の面からも重要であり、「欧亜連絡最短鉄道」・「世界唯一の平和鉄道」であるとしている。 ルートは、当時中国における鉄道の西端であった包頭・西安を起点とし、甘粛省の甘州、新疆省の哈密にクチャ、カシュガル、そして天山山脈南路のパミール高原を横切ってアフガニスタンに出て、ワハーン、首都カーブルを経由、イランの首都テヘランを経て、イラクの首都バグダードに至り、ここでイスタンブール方面から続いているバグダード鉄道に接続するとしていた。 建設の総距離は7,500km、予算は12億円で充分とし、さらにパミール高原以外には建設の難所はないとして、「絶対につくらなければならない鉄道」とも断言していた。 しかし、湯本の発案は論文が出された時から「荒唐無稽」であるとの声が強く、「夢を食っている男」、「『獏』と名前を変えたらどうか」などと冷笑された。その後、1942年(昭和17年)に帝国鉄道協会がこの計画に賛同し、中央亜細亜横断鉄道調査部を協会内に設置しているが、実現に至ることはなかった。 21世紀に入ってからは戦後の中国で成立した中華人民共和国が国策に掲げる一帯一路構想によって西安を起点に新疆(南疆線、北疆線)・中央アジア・トルコのマルマライ経由でドイツなどヨーロッパまで横断する路線は開通し(渝新欧鉄道、義烏・ロンドン路線(英語版)、義烏・マドリード路線(英語版))、中国とアフガニスタンを結ぶ貨物列車も運行するも、旅客鉄道はなく、この計画で果たされていない区間もある。
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