中央アジア横断鉄道とは? わかりやすく解説

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中央アジア横断鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:26 UTC 版)

大東亜縦貫鉄道」の記事における「中央アジア横断鉄道」の解説

この「大東亜縦貫鉄道計画先立つ1938年昭和13年2月鉄道省湯本鉄道監察官が「中央アジア横断鉄道計画」というものを発表していた。 それは、かつて「シルクロード」と呼ばれた中央アジア地域鉄道敷設し日本同盟国であるナチス・ドイツまで結び、シベリア鉄道に次ぐユーラシア大陸横断鉄道目指すというものであった計画の背景には、シベリア鉄道ソビエト連邦ソ連)のものであったため、アジアからヨーロッパへ行く最速ルートであった(この当時航空機はまだ普及していなかった)にもかかわらず輸送政情等に左右され不安定になりがちだったことから、独自でそれの代替ルート実現させたらどうかという発案、それにソ連軍事・思想脅威日本仮想敵国とされていた)に対す抵抗があった。湯本提案以前にも、南満州鉄道総裁山本条太郎などがこの鉄道敷設案を出している。 湯本は、かつてイスラム教徒ムスリム)の活動によって栄えた中央アジア区域が、欧米列強進出によって衰退し、現在に至って新し文化産業起こらない根本的な原因は、交通機関未発達によると述べ、この鉄道必要性訴えた。「旅」の1939年昭和14年10月号に掲載され湯本論文によれば当時東京・パリ間がシベリア鉄道経由15日かかるところ、この新鉄道では高性能機関車用いて10日間で走破できると述べ、さらに周辺各国における振興の面からも重要であり、「欧亜連絡最短鉄道」・「世界唯一の和鉄道」であるとしている。 ルートは、当時中国における鉄道西端であった包頭西安起点とし、甘粛省甘州新疆省哈密クチャカシュガル、そして天山山脈南路のパミール高原横切ってアフガニスタン出てワハーン首都カーブル経由イラン首都テヘラン経てイラク首都バグダード至り、ここでイスタンブール方面から続いているバグダード鉄道接続するとしていた。 建設の総距離は7,500km、予算12億円で充分とし、さらにパミール高原以外には建設難所はないとして、「絶対につくらなければならない鉄道」とも断言していた。 しかし、湯本発案論文出された時から「荒唐無稽」であるとの声が強く、「夢を食っている男」、「『』と名前を変えたらどうか」などと冷笑された。その後1942年昭和17年)に帝国鉄道協会がこの計画賛同し中央亜細亜横断鉄道調査部協会内に設置しているが、実現に至ることはなかった。 21世紀に入ってからは戦後中国成立した中華人民共和国国策掲げ一帯一路構想によって西安起点新疆南疆線北疆線)・中央アジア・トルコのマルマライ経由ドイツなどヨーロッパまで横断する路線開通し渝新欧鉄道義烏ロンドン路線英語版)、義烏マドリード路線英語版))、中国アフガニスタンを結ぶ貨物列車運行するも、旅客鉄道はなく、この計画果たされていない区間もある。

※この「中央アジア横断鉄道」の解説は、「大東亜縦貫鉄道」の解説の一部です。
「中央アジア横断鉄道」を含む「大東亜縦貫鉄道」の記事については、「大東亜縦貫鉄道」の概要を参照ください。

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