建設と挫折とは? わかりやすく解説

建設と挫折

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 05:52 UTC 版)

弾丸列車」の記事における「建設と挫折」の解説

1940年昭和15年9月鉄道省が「東京下関新幹線建設基準」を制定し同年帝国議会で「広軌幹線鉄道計画」が承認され国家1954年昭和29年)までに開通させることを目標とした「十五ヶ年計画」に基いて総予算5億5600万円をかけて建設を行うことが決定した。これに基き用地買収工事開始されることとなる。 なお構想として、将来対馬海峡海底トンネル掘削し満州国首都新京(現:長春)や中華民国北京までの直通列車走らせるというものもあった(日韓トンネルの項目も参照)。太平洋戦争によって日本軍シンガポール昭南)を獲得すると、そこまで延長画策されたという。「大東亜共栄圏構想に基いて日本東アジア・東南アジアでの覇権確立し日本中心として東アジア・東南アジア植民地解放した新し体制を創ろうとしたことからこれらの計画生まれたといわれ、他にもインド・ラオス等への鉄道敷設構想としては存在しシベリア鉄道代わるアジアからヨーロッパまでの鉄道敷設目指した「中央アジア横断鉄道計画」(新規建設区間包頭西安 - 甘州(現、張掖) - 哈密 - カシュガル - カーブル - テヘラン - バグダード、他の区間既設活用)なるものも立案された。大東亜縦貫鉄道参照のこと。 しかしながら戦争戦局悪化したため、1943年昭和18年)度をもって工事中断されてしまった。だが日本坂トンネルについては工事継続され完成後は東海道本線新トンネルとして転用された(後に東海道新幹線トンネルとして再転用される)。また、新丹那トンネル東山トンネル工事進んでおり、用地買収東海道区間については戦時体制による半ば強制的な形で多く完了していたため、戦後東海道新幹線建設計画においてそれらは活用されることになる。 なお終戦直後1946年昭和21年6月には、外資取り入れた民間主導でこの計画実現させようという計画あがった。「日本鉄道株式会社」(仮称東北本線などを敷設した明治時代日本鉄道とは無関係)として立案されたこの計画は、東京から福岡の間に標準軌新線敷設し寝台列車貨物列車などは機関車牽引その他の列車電車列車運行東京 - 大阪間を4時間、東京 - 福岡間を10時間で結ぶことを目標とした。しかし、日本主要幹線鉄道国有法により国家運営することが定められていたことと、国の復興予算資材国鉄優先的に投与することになっていたため、認可には至らなかった。また岡山県では、弾丸列車計画ルート生かす形で笠岡市から岡山市通って兵庫県赤穂市までを結ぶ「岡山急行電気鉄道」の計画立案されたことがあった。 新丹那トンネル開削のため、作業員宿舎置かれた場所である静岡県田方郡函南町には、戦中よりこの弾丸列車計画にちなんで、「新幹線」という地名が今に至るまで存在している。

※この「建設と挫折」の解説は、「弾丸列車」の解説の一部です。
「建設と挫折」を含む「弾丸列車」の記事については、「弾丸列車」の概要を参照ください。

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