東海道新幹線建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 00:00 UTC 版)
就任後、新幹線研究報告を要請した際、当時の国鉄技師長藤井松太郎が「広軌新幹線を作る金もシステムも国鉄には無い。適当にあしらっておけ。」と答えたため、十河は「技師長にはもっと視野の広い人物に座ってもらいたい。替わってくれ!」と激怒し、技師長の職を辞任させ、常務理事として国鉄の中枢部に異動させた(国鉄内部での影響力を考慮すると、昇進である)。 藤井を辞職させた後には1951年(昭和26年)の桜木町事故で引責辞任し、政治がらみに嫌気が差していた国鉄OBで親子2代国鉄マンの島秀雄を「一緒にお父さんの仇討ちをしよう」と口説き、副総裁格の技師長として復帰させた。この時、十河本人の提案と島の意思により、島の立場は総裁の1つ下、副総裁と同格にしようと企むも、実現には国鉄法の改正が必要になるため、断念。島はあくまで「国鉄内部での」副総裁格とすることになった。また、「政治とカネはオレが引き受けるから」と言い、自らは政治的手腕をふるい、島とともに新幹線建設計画を主導・推進した。さらに主要幹線の電化・ディーゼル化(無煙化)や複線化を推し進め、オンライン乗車券発売システム「マルス」を導入して座席券販売の効率化を図るなど、当時高度経済成長で大きく伸びていた輸送需要への対応に努めた。 このほか、1957年(昭和32年)には地方の経営自由度を高めるため、新たに支社制度を導入し、本社が持っていた220項目の権限を支社に移管させた。十河の在任期間中国鉄の収支は持ち直し、黒字決算を続けた。1959年(昭和34年)には、自伝『有法子』(交通協力会)を出している。
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