東海道新幹線建設時における「貨物新幹線」計画
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「新幹線」の記事における「東海道新幹線建設時における「貨物新幹線」計画」の解説
「貨物新幹線」は、東海道新幹線の建設時から東京-大阪間を5時間半で結ぶ夜行貨物列車の運行構想があった。1958年(昭和33年)に国鉄幹線調査会が答申し、国鉄の新幹線総局計画審議室などが検討をおこなった。 計画を担当していた石井幸孝によると、国鉄では5トンコンテナの規格を新幹線の車両限界に合わせたサイズ(8×8×12フィート)とし、貨物取扱駅の用地買収を進め工事も開始したが、東海道新幹線の建設費がインフレの影響で当初の計画より二倍近くに膨れ上がったため計画を断念した。その後、貨物新幹線用地は東京貨物ターミナル駅や車両基地などに転用された。大阪貨物ターミナル駅の近くには未完成の高架施設が残っていたが、2013年から順次撤去工事が進められている。 東海道新幹線建設時の計画については、世界銀行から新幹線建設の資金を調達する際、貨物が鉄道輸送の主力となっていたアメリカの理解を得るためのダミー構想だったとの見方があるが、石井はこれを否定している。また、国鉄在籍時に東海道新幹線建設に従事した長尚は、高橋団吉著『新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語』の「じつは、貨物新幹線を走らせる気は、最初からなかったのである。」という記述に対して「東海道新幹線の計画から開業後の暫くまで、国鉄の責任者・関係者は貨物輸送を真剣に考えていたことは、次のような幾つかの事実から間違いない、としている。 東海道新幹線の建設基準にある活荷重(列車荷重)は、N標準活荷重(貨物列車荷重)とP標準活荷重(旅客列車荷重)とからなっていて、平成14年(2002年)に改正されるまで、この基準は生きていた。 貨物駅のための用地買収が各地でなされていた。 貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収など無駄なことはしなかったはずである。 東海道新幹線開業後の昭和40年3月15日の国会の法務委員会で、国鉄常務理事が「国鉄といたしましては、新幹線を利用いたしまして高速の貨物輸送を行なうということが、国鉄の営業上どうしても必要なことでございまして、またその需要につきましても十分の採算を持っておりますので、なるべく早く新幹線による貨物輸送を行ないたい、こういうふうに考えて計画を進めております」と答弁している。 JTBキャンブックス『幻の国鉄車両』 pp. 46 – 52 には、コンテナ電車他各種車両のメトリクスや編成図が掲載されている。 石井は将来的には人口減少により旅客輸送の需要が減りダイヤに余裕が出来るため、最高速度を200km/h程度に抑えた夜行貨物列車が可能となると主張し、新型の導入で余剰となった旧型車両を改造してヤマト運輸のロールボックスパレットを搭載出来るようにした図面を公開している。
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