中央アジア諸国の拡大に対して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 09:06 UTC 版)
「シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ」の記事における「中央アジア諸国の拡大に対して」の解説
だが、アイバク派の貴族、アイバクの旧主であるシハーブッディーン・ムハンマド(ムハンマド・ゴーリー)派の貴族の中には、イルトゥトゥミシュの即位に抵抗する者も少なからず存在した。さらにアフガニスタンと北インドには、ムルターンを本拠としてシンド地方を支配するナースィルッディーン・カバーチャ(英語版)、ガズナのタージ・ウッディーン・ユルドゥズら、かつてのアイバクの同僚であった将校たちが割拠しており、彼らはアイバク亡き後のデリーを窺っていた。また、ベンガル地方のイスラム政権、以前にアイバクが従属させたラージャスターンのラージプート国家はデリーから独立した状態にある危機的な状況にあった。即位直後のイルトゥトゥミシュはカバーチャとユルドゥズとの戦いを避け、デリー近辺の安定に取り掛かる。反対派の貴族をパンジャーブ地方のジュードで破って実力によって彼らを屈服させるとともに、彼らと連携したヒンドゥー教徒の反乱を鎮圧した。 12世紀末より中央アジア、イランで勢力を拡大していたホラズム・シャー朝が西北のユルドゥズ、カバーチャを脅かすと、イルトゥトゥミシュはホラズム・シャー朝の北インドへの侵入を阻止するためにシンドに兵を進める。ユルドゥズがホラズム・シャー朝にガズナを奪われてカバーチャの元に逃れると、1216年にイルトゥトゥミシュはタラーイン(英語版)で弱体化したユルドゥズを攻撃し、彼を捕殺した。しかし、ユルドゥズの死後はカバーチャからの圧力が増し、依然デリーは不安定な状態に置かれていた。 1220年代にホラズム・シャー朝はモンゴル帝国の侵入(チンギス・カンの西征)によって壊滅状態に陥り(en:Mongol invasion of Khwarezmia and Eastern Iran)、1222年にホラズム・シャー朝のスルタン・ジャラールッディーン・メングベルディーがデリーの宮廷に亡命を打診する事件が起きる。ジャラールッディーンを保護することでデリーがモンゴル帝国の標的となる可能性、ジャラールッディーンの軍事能力を警戒したイルトゥトゥミシュは、亡命を丁重に断った上でムルターンへの移動を勧めた。シンドに移動したジャラールッディーンがカバーチャの領土と軍に損害を与えると、イルトゥトゥミシュはカバーチャを助けるために軍を動かした。一度はジャラールッディーンとの直接対決を避け、彼と和約を結んで娘を与えたが、最終的にはカバーチャら北インドの諸勢力と同盟してジャラールッディーンらホラズム・シャー朝の軍をインドから放逐する。 1228年にでホラズム・シャー朝の侵入によって弱体化したカバーチャをインダス河畔で破り、国境をインダス川沿岸部に伸張した。同時期のモンゴル帝国はインドを攻撃の対象とはせずにイラク、キプチャク草原方面に軍を送っており、イルトゥトゥミシュはモンゴルの侵入に備えて北方の防備を整えた。
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