中央アジア探検
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「ジュール=レオン・デュトルイユ・ド・ラン」の記事における「中央アジア探検」の解説
1889年にデュトルイユ・ド・ランは中央アジアとチベットの探検の計画を立て、公共教育省とフランス学士院に資金援助を要求した。当時の地図ではこれらの地域にはまだ空白が多かった。考古学や文物の調査のために、探検には東洋言語学校のフェルナン・グルナール(フランス語版)が同行した。ふたりはマルセイユ港を1891年2月21日に出発して、コンスタンティノープルから陸路を行き、7月7日にホータンに到着した。そこで探検隊を結成し、1892年6月からラダック、レー、カシミール、カラコルム峠を訪れたが病気になり、11月にはホータンに引きかえした。 翌1893年5月からラサをめざしてチベット北部の荒涼とした地を進み、12月にナムツォまで到達したが、そこで清の役人に遮られ、ラサに入ることはできなかった。デュトルイユ・ド・ランはあきらめて北東に去り、サルウィン川、メコン川、長江の源流を探検した。西寧へ向かう途中で馬を盗まれて動けなくなり、チベット人の馬を奪って出発しようとしたが、村人に襲われて殺された。 グルナールは生きのびて西寧を経由して北京に到着した。フランス大使のオーギュスト・ジェラールはこの事件に抗議した。主犯とされた村人4人が西寧で斬首され、また清は賠償金を支払った。 1897年から翌年にかけて、グルナールによって探検の記録が出版された(全3巻)。 Mission scientifique dans la Haute-Asie, 1890-1895. Paris: Ernest Leroux. (1897-1898). https://books.google.com/books?id=NAhbpQSqMuUC. 巻2 巻3 グルナールは碑文の写しや写本を持ち帰った。とくに有名なのはホータン近辺で得たガンダーラ語『法句経』で、エミール・セナールによって1898年に発表された。同じ写本の別の部分をカシュガルに駐在していたロシア領事ニコライ・ペトロフスキー(ロシア語版)が入手し、セルゲイ・オルデンブルクの手に渡った。1990年代に新たな写本が出現するまでの100年間、ガンダーラ語法句経は唯一のガンダーラ語仏教写本だった。
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中央アジア探検
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1906年6月17日、ペリオは軍医のルイ・ヴァイヤンと写真家のシャルル・ヌエットとともにパリを出発して中央アジア探検に向かった。3人は鉄道でモスクワからタシケントに赴き、そこから清国領東トルキスタンに入った。探検隊は8月末にカシュガルに到着し、ロシア総領事館に滞在した。清国の官憲はペリオの流暢な中国語に驚き、探検準備のためにさまざまな便宜を図ってくれた。探検隊はトゥムチュクを経てクチャに入り、そこでブラーフミー文字に似た文字(後にトカラ文字と呼ばれる)で書かれた失われた言語(後に、トカラ語のB方言クチャ語と呼ばれる)の文書を発見した。この文書は後にペリオの師であるシルヴァン・レヴィによって解読されることになる。 探検隊はさらにウルムチ滞在中、敦煌出土の法華経古写本を見て、敦煌に赴いた。敦煌の莫高窟はイギリスの探検家オーレル・スタインが前年の1907年に訪れ、1万点の古文書を持ち去っていたが、まだ残された文書も多かった。ペリオは莫高窟を守っていた王道士と交渉して、蔵経洞に入ることを許された。ここでもペリオの流暢な中国語が役立った。3週間にわたって蔵経洞の文書を調べたペリオは、最も価値のある文書数千点を選び出し、王道士に売却を交渉した。莫高窟の再建を計画していた王道士は500両(約90ポンド)で売ることを承諾した。スタインは中国語を知らなかったので、彼が持ち帰った文書は価値のないものも多かったが、中国語を含め13ヶ国語に通じるペリオが選んだ文書はいずれも逸品ぞろいだった。そのなかには新発見の新羅僧・慧超の『往五天竺国伝』も含まれていた。
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