探検の記録とは? わかりやすく解説

探検の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 01:02 UTC 版)

デルスウ・ウザーラ (書籍)」の記事における「探検の記録」の解説

出発 アルセニーエフは、シホテアリニ山脈中部にあたる北緯45度から47度を調査する計画立てテルネイ湾から北上してビキン川に沿い、ウスリー川に出るというルート考えた1906年調査経験をもとに、馬に代えてラバ同行馬具携帯品改良大工道具追加などの変更がされた。 アルセーニエフ5月13日ハバロフスク出発し、デルスウと再会をした。隊は海軍協力得て5月22日水雷艇乗り5月30日にジギト湾まで運ばれた。隊はラバ荷物そろってから7月1日にジギト湾を出発し7月27日にはイオズヘ川に到着した。サンホベ川でジャンバオと会って彼が同行し途中でドゥン・ターウィズの集落歓待を受け、ビリンベ川をさかのぼって鬱蒼としたビリンベの抜けた8月から9月 アルセーニエフ隊は、8月10日から4日間ほど大雨大洪水見舞われ、デルスウとジャンバオの機転によって水没から逃れる。いったん海岸向かって別行動をしていた分隊合流し8月19日から21日まで滞在して食料集めた川の水が引くのを待って渡河し、8月24日から海岸沿いへ進み、シャオケム川をさかのぼって上流調査した9月からタケマ川に進んだ時に中国人着き、そこからターズ猟師であるチャンリンが同行する流れ早く人の少ないタケマ川は原生林囲まれており、隊は川をさかのぼってシホテアリニ山脈を登った。 隊は9月11日からシホテアリニ山脈尾根伝い進み9月25日はタケマ川から離れて北上した海岸沿いに進んだ時にナイナ川の朝鮮人クロテン猟師と会う。この頃にはクロテン猟が始まっており、旧信徒通ってアマグウ川へ着いた10月 10月4日からはアマグウ川をさかのぼりアルセーニエフによれば美しい」滝を通りすぎて10月7日からカルトゥ山脈登る。カルトゥ山脈最高峰着いてからは海岸目指すが、クルンベ川を下る途中でアルセーニエフは熱を出してデルスウの看病を受ける。2人は何とか海岸着き水雷艇救われた。 アマグウへ戻って休養した隊は、10月20日出発する休暇終了持病などによってメンバー何人帰還し総勢7人となったウデへと交流しながらクスン川沿い進み満州人船頭ヘイバートウと出会い、ジャンバオはここでサンホベへ帰ったクスン河口からタホベ川へ着き、そこで暮らすソロン族のダーツァルが案内人となる。デルスウとダーツァルによれば悪魔がいる」という岩山などをすぎ、ダーツァルの予測で嵐をかわしつつ、クムフウ川(クズネツォワ川)へ着いた。クムフウはオホーツク系と満州系の植物の境界にあたり、隊はここでダーツァルと別れて休息をとる。 11月から12月 11月1日には、気温氷点下10度となっていた。隊は海岸沿いに北上し、ナハトフ川へ向かう途中でウデヘ族猟師ヤンセリに会う。ヤンセリの案内でナハトフ沿いの海岸に着くが、その地点合流するはずのヘイバートウが嵐で行方不明になったという知らせを受ける。ヘイバートウから補給を受ける予定だった隊は物資欠乏し、冬が近づく中で決断迫られるアルセーニエフはデルスウと相談し、アマグウへ戻るか、ナハトフに留まる考える。デルスウはナハトフにしばらく留まってヘイバートウを待つ提案をして、アルセーニエフ賛成した。 隊は、ヘイバートウが見つけやすいよう海岸そばにゼムリャンカ(英語版)(土小屋)を建て、アルセーニエフは不安を抱きながら滞在した他方、デルスウは狩りで銃を撃った際に続けて外し自分視力衰えたことを悟って愕然とするアルセーニエフはデルスウに助けられてきたことを話し、デルスウに一緒に街で暮らそう提案する。デルスウは熟考の末、アルセーニエフ賛成した。隊は11月16日まで留まったが、ヘイバートウの船は来ず、アマグウの旧信徒たちのへ戻ることに決める。 11月23日クスンまで戻り、嵐を避けて滞在した隊は、ヘイバートウに再会する。ヘイバートウによれば、舟は強風サハリンまで運ばれてしまったので、南下をして戻ってきたという。補給物資無事だったので、アルセーニエフ計画立て直すクスン川をさかのぼってシホテアリニ山脈行きビキン川へ出ることにした。ナルト)や雪靴自作し準備整え12月4日出発した満州人のチー・シ=ウの案内中国人集落行って歓待を受け、山火事荒地となったクスンの谷を進む。ウデヘ族シャーマンであるスンツァイに会い、彼がシホテアリニ山脈までの案内引き受けた帰還 12月9日からウレンゴウ川沿い進み12月14日からシホテアリニ山脈登る。シホテアリニを越えたのちはムイゲ川沿い下りビキン川ウデへ族のもとで滞在してクリスマス祝った12月26日出発してビキン川渡りターズ老人キテンブが案内人に加わるが、キテンブのトラ襲われて獲られてしまった。 12月30日にトゥルーグウに着き12月31日にはシーゴウ(西溝)で年を越し、メルズリャコフと再会した。年が明けてからカザーク馬橇出発し1月4日ウスリー鉄道着いて1月7日ハバロフスク帰還した。 デルスウの最期 視力衰えたデルスウは、探検終了後アルセーニエフと共にハバロフスク生活するが、街になじめなかった。銃が撃てないこと、戸外寝られないこと、を買うことなどが彼を驚かせ不機嫌にした。やがてデルスウは山へ出かけたいアルセーニエフ懇願する。デルスウが失われた自由のために苦しんでいるとアルセーニエフ考え、デルスウが山へ行くのを認めたアルセーニエフはデルスウが出かける前に1ヶ月後にウスリー川同行する約束した。しかし、2週間後にアルセーニエフのもとに電報届き、デルスウの死を知らせた。デルスウは3月13日ハバロフスクの南25キロにあるコルフォフスカヤ駅の近くで見つかり、焚き火のそばで死んでおり、銃は奪われていた。おそらく銃と金品を狙ったロシア人によって睡眠中に殺害されていた。アルセーニエフはデルスウの埋葬見守り1910年に再びコルフォフスカヤへ行ったが、開発によって埋葬場所は分からなくなっていた。デルスウを最後に見かけ労働者たちは、銃を持った男が木にとまったカラス話しているのを見て酔っ払いだと思ったという。

※この「探検の記録」の解説は、「デルスウ・ウザーラ (書籍)」の解説の一部です。
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