探検の記録
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「デルスウ・ウザーラ (書籍)」の記事における「探検の記録」の解説
出発 アルセニーエフは、シホテアリニ山脈の中部にあたる北緯45度から47度を調査する計画を立て、テルネイ湾から北上してビキン川に沿い、ウスリー川に出るというルートを考えた。1906年の調査の経験をもとに、馬に代えてラバの同行、馬具や携帯品の改良、大工道具の追加などの変更がされた。 アルセーニエフは5月13日にハバロフスクを出発し、デルスウと再会をした。隊は海軍の協力を得て5月22日に水雷艇に乗り、5月30日にジギト湾まで運ばれた。隊はラバや荷物がそろってから7月1日にジギト湾を出発し、7月27日にはイオズヘ川に到着した。サンホベ川でジャンバオと会って彼が同行し、途中でドゥン・ターウィズの集落で歓待を受け、ビリンベ川をさかのぼって鬱蒼としたビリンベの森を抜けた。 8月から9月 アルセーニエフ隊は、8月10日から4日間ほど大雨と大洪水に見舞われ、デルスウとジャンバオの機転によって水没から逃れる。いったん海岸へ向かって別行動をしていた分隊と合流し、8月19日から21日まで滞在して食料を集めた。川の水が引くのを待って渡河し、8月24日から海岸沿いへ進み、シャオケム川をさかのぼって上流を調査した。9月からタケマ川に進んだ時に中国人の村に着き、そこからターズの猟師であるチャンリンが同行する。流れが早く人の少ないタケマ川は原生林に囲まれており、隊は川をさかのぼってシホテアリニ山脈を登った。 隊は9月11日からシホテアリニ山脈の尾根伝いに進み、9月25日はタケマ川から離れて北上した。海岸沿いに進んだ時に、ナイナ川の朝鮮人のクロテン猟師と会う。この頃にはクロテン猟が始まっており、旧信徒の村を通ってアマグウ川へ着いた。 10月 10月4日からはアマグウ川をさかのぼり、アルセーニエフによれば「美しい」滝を通りすぎて10月7日からカルトゥ山脈を登る。カルトゥ山脈の最高峰に着いてからは海岸を目指すが、クルンベ川を下る途中でアルセーニエフは熱を出してデルスウの看病を受ける。2人は何とか海岸に着き、水雷艇に救われた。 アマグウへ戻って休養した隊は、10月20日に出発する。休暇の終了や持病などによってメンバーが何人か帰還し、総勢7人となった。ウデへと交流しながらクスン川沿いに進み、満州人の船頭ヘイバートウと出会い、ジャンバオはここでサンホベへ帰った。クスンの河口からタホベ川へ着き、そこで暮らすソロン族のダーツァルが案内人となる。デルスウとダーツァルによれば「悪魔がいる」という岩山などをすぎ、ダーツァルの予測で嵐をかわしつつ、クムフウ川(クズネツォワ川)へ着いた。クムフウはオホーツク系と満州系の植物の境界にあたり、隊はここでダーツァルと別れて休息をとる。 11月から12月 11月1日には、気温は氷点下10度となっていた。隊は海岸沿いに北上し、ナハトフ川へ向かう途中でウデヘ族の猟師ヤンセリに会う。ヤンセリの案内でナハトフ沿いの海岸に着くが、その地点で合流するはずのヘイバートウが嵐で行方不明になったという知らせを受ける。ヘイバートウから補給を受ける予定だった隊は物資が欠乏し、冬が近づく中で決断を迫られる。アルセーニエフはデルスウと相談し、アマグウへ戻るか、ナハトフに留まるか考える。デルスウはナハトフにしばらく留まってヘイバートウを待つ提案をして、アルセーニエフも賛成した。 隊は、ヘイバートウが見つけやすいように海岸そばにゼムリャンカ(英語版)(土小屋)を建て、アルセーニエフは不安を抱きながら滞在した。他方、デルスウは森の狩りで銃を撃った際に続けて外し、自分の視力が衰えたことを悟って愕然とする。アルセーニエフはデルスウに助けられてきたことを話し、デルスウに一緒に街で暮らそうと提案する。デルスウは熟考の末、アルセーニエフに賛成した。隊は11月16日まで留まったが、ヘイバートウの船は来ず、アマグウの旧信徒たちの村へ戻ることに決める。 11月23日にクスンまで戻り、嵐を避けて滞在した隊は、ヘイバートウに再会する。ヘイバートウによれば、舟は強風でサハリンまで運ばれてしまったので、南下をして戻ってきたという。補給物資は無事だったので、アルセーニエフは計画を立て直す。クスン川をさかのぼってシホテアリニ山脈へ行き、ビキン川へ出ることにした。ナルト(橇)や雪靴を自作して準備を整え、12月4日に出発した。満州人のチー・シ=ウの案内で中国人集落に行って歓待を受け、山火事で荒地となったクスンの谷を進む。ウデヘ族のシャーマンであるスンツァイに会い、彼がシホテアリニ山脈までの案内を引き受けた。 帰還 12月9日からウレンゴウ川沿いに進み、12月14日からシホテアリニ山脈を登る。シホテアリニを越えたのちはムイゲ川沿いに下り、ビキン川のウデへ族のもとで滞在してクリスマスを祝った。12月26日に出発してビキン川を渡り、ターズの老人キテンブが案内人に加わるが、キテンブの犬はトラに襲われて獲られてしまった。 12月30日にトゥルーグウに着き、12月31日にはシーゴウ(西溝)で年を越し、メルズリャコフと再会した。年が明けてからカザークの馬橇で出発し、1月4日にウスリー鉄道に着いて1月7日にハバロフスクへ帰還した。 デルスウの最期 視力が衰えたデルスウは、探検終了後にアルセーニエフと共にハバロフスクで生活するが、街になじめなかった。銃が撃てないこと、戸外で寝られないこと、薪や水を買うことなどが彼を驚かせ、不機嫌にした。やがてデルスウは山へ出かけたいとアルセーニエフに懇願する。デルスウが失われた自由のために苦しんでいるとアルセーニエフは考え、デルスウが山へ行くのを認めた。 アルセーニエフはデルスウが出かける前に、1ヶ月後にウスリー川に同行すると約束した。しかし、2週間後にアルセーニエフのもとに電報が届き、デルスウの死を知らせた。デルスウは3月13日にハバロフスクの南25キロにあるコルフォフスカヤ駅の近くで見つかり、焚き火のそばで死んでおり、銃は奪われていた。おそらく銃と金品を狙ったロシア人によって睡眠中に殺害されていた。アルセーニエフはデルスウの埋葬を見守り、1910年に再びコルフォフスカヤへ行ったが、開発によって埋葬場所は分からなくなっていた。デルスウを最後に見かけた労働者たちは、銃を持った男が木にとまったカラスと話しているのを見て、酔っ払いだと思ったという。
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