エドウィン・ジェームズとは? わかりやすく解説

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エドウィン・ジェームズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/17 08:24 UTC 版)

エドウィン・ジェームズ

エドウィン・ジェームズ(Edwin P. James、1797年8月27日 - 1861年10月28日)はアメリカ合衆国の植物学者、地理学者、地質学者である。1819年にスティーブン・ロング(Stephen Harriman Long)が率いたロッキー山脈の探検に参加し、その探検記録を執筆した。ロッキー山脈のパイクスピーク(標高:4301m)の記録に残る最初の登頂も行った。

略歴

バーモント州アディソン郡のウェイブリッジ(Weybridge)で生まれた。1812年にミドルベリー大学に入学した。1816年に卒業し、ニューヨークに出て、医学の勉強を続け、植物学者のジョン・トーリーや地質学者のエーモン・イートンに学んだ。[1] 1820年にアメリカ陸軍のスティーブン・ロングによって率いられた、ミシシッピーからロッキー山脈に至る探検のメンバーに植物学者、地質学者として選ばれ、ロッキー山脈やその周囲を探検した最初の科学者の一人となった。1820年にパイクスピーク登頂の記録を残した。[2]近傍のジェームズ・ピーク(James Peak、標高4,052 m)にも登頂し、この山は後にジェームズの名前が付けられた。[3]パイクスピークの山麓で、現在、マニトウ・スプリングスとして知られる、ミネラルウォーターの鉱泉を発見した。[4]

1823年に探検の記録、"Expedition to the Rocky Mountains 1818-1819"を執筆した。[5]アメリカ陸軍の軍医として働き、原住民とも交流し、アマチュア言語学者としてオジブウェー語も学んだ。9歳で原住民に捕らえられて育てられ、後に通訳として働いていたジョン・タナー(John Tanner)と知り合い、彼から聞いた話を1830年に、"A Narrative of the Captivity and Adventures of John Tanner"として発表した。[6]

その後政府の仕事を辞め、アイオア州に住み、オジブウェー語に翻訳した聖書を含む9冊の著作を行った。バーリントンで没した。

北アメリカ西部原産のアジサイ科の植物の属名、Jamesia などに献名されている。

参考文献

E.Jamesは、植物の学名命名者を示す場合にエドウィン・ジェームズを示すのに使われる。命名者略記を閲覧する/IPNIAuthor Detailsを検索する。)



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