中央アジア国境策定交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/15 13:11 UTC 版)
「アブドゥッロ・ラヒンバエフ」の記事における「中央アジア国境策定交渉」の解説
1923年7月23日から11月まではブハラ共産党(イタリア語版)中央委責任書記、同年から翌1924年まではトルキスタン共産党中央委第二書記、同年4月からはロシア共産党中央委の中央アジア国境策定(ロシア語版)担当局内部で、ウズベク小委員会議長を務めた。 この中央アジア国境策定交渉の際、ブハラ代表のファイズッラ・ホジャエフとともにラヒンバエフが推した「民族別共和国案」と、スルタンベク・ホジャノフ(ロシア語版)らカザフ小委員会が推した「中央アジア連邦案」が対立する事態に陥った。「連邦案」は中央アジアを広く遊牧するカザフ人にとって有利なものであったが、定住民族による国家の安定を重視したモスクワの介入により、ウズベク小委員会による「民族別共和国案」が勝利を収めることとなった。 この決定により、ウズベク人の側は中央アジア南部の民族定住地域を広く「ウズベク社会主義ソビエト共和国」とすることができた一方、未だナショナリズムが未発達なタジク人は交渉に有能な代表を送ることすらできず、彼らが手にした「タジク自治社会主義ソビエト共和国」は、タジク人定住域の極一部に過ぎなかった。加えてこの「タジク自治共和国」はウズベク共和国に従属する痩せた山岳地帯に過ぎなかったため、その後のタジク・ナショナリズムは反ウズベク感情に基づくしこりを残すことになった。
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