木簡の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 04:09 UTC 版)
ハンガリー出身のイギリス人オーレル・スタインが尼雅(ニヤ遺跡)で50枚、スウェーデンのスウェン・ヘディンが楼蘭で120枚余の晋代の木簡を発見した1901年を、遺跡からの木簡出土の嚆矢とする。スタインは、1907年、1913年-16年の、第2次・第3次探検でも、約900枚の漢代の木簡を発見した(敦煌漢簡)。その後西北科学考査団によって、1930年にはエチナ川流域から一挙に1万点以上の大量の木簡が発見された(居延漢簡)。このときは木簡を横に並べて作った冊書が初めてみつかった。このように、20世紀前半の木簡は、ヨーロッパ人の中央アジア探検隊が西北辺境で発見したものであった。 20世紀後半からは中国人が全国で多数発見するようになった。スタインらの発見は極度の乾燥状態で保存されたものだが、後半以降は地中の墓にあって水に漬かった状態や高い湿度のおかげで腐らず残ったものである。20世紀末からは古井戸からの出土も多くなり、2007年以降は骨董市場から購入する例も出てきた。発見数は100万点を超えるとも言われる。
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