日本の木簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 04:09 UTC 版)
日本の木簡としては、正倉院の宝物に付けられていた30数点が伝わるほか、江戸時代には、当時、小勝田と呼ばれていた秋田県北秋田市脇神の埋もれた家屋から出土した例や、明治時代の1902年に出土した材木に刻まれた文字の拓本、大正時代の1914年と翌1915年に同じ秋田県大仙市の怒遺跡から出土した例などの報告があるが、現存する日本で最初の木簡発見例は、1904年に、香川県さぬき市の長福寺で見つかった室町時代の備蓄銭の付札である。なお、1928年に三重県桑名市の柚井遺跡で『桜樹郷』と記された籾の付札を含めた3点、1930年に秋田県大仙市美郷町の城柵遺跡、払田柵跡で2点が見つかっていたが、いずれも当時はあまり注目されなかった。大量出土は1961年の平城京跡での41点に始まり、以後続々と各地で見つかるようになった。数的に多いのは1996年の平城京東南隅から約1万3千点、1988~1989年の長屋王家木簡と隣接する二条大路木簡があわせて約11万点、長岡京など都からのものである。特に長屋王家木簡の発見で、重要な考古資料として木簡が広く知られるようになった。最近では藤原京より以前の宮都やその周辺の遺跡からも、さらに、国・郡の地方官衙や寺院など全国から出ている。2011年末までに38万点以上が見つかっている。 日本の木簡はほとんどが水に漬かった状態の土の中から発見されている。1960年代から急に発見が多くなったのは、それまで見逃されがちだった土中の木片に注意を払い、調査を緻密にしたためである。木簡点数の多くは削り屑で、削り屑に文字が書かれていなければ木簡ではないが、一字でも字の断片でも墨書があれば木簡として記録する。屑同士が接合すれば複数片をまとめて1点と数えるが、実際には困難なので、削られた断片が数えられることになる。 日本の木簡研究は、木簡を形状と用途の二側面から分類している。形状の分類では、奈良国立文化財研究所が平城京木簡の分類に際してとった18分類の型式が用いられるが、分類には他の方法もある。どの方法でも数が多くて目立つのは、短冊形、切りこみつき短冊形、一端を尖らせた短冊型である。大きさに定まった規格はなく、ほとんどは長さ20センチメートルから30センチメートル、幅1.5センチメートルから4センチメートルの範囲に入るが、これとかけ離れた大きさのものもあった。用途別では、文書木簡、付札木簡、その他の三つに分ける用途と形状は密接にかかわっている。福岡県の太宰府市にある国分松本遺跡からは国内最古とされる木簡が出土している。 日本に竹簡はなく、冊書も作らなかった。
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