朝鮮の木簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 04:09 UTC 版)
朝鮮では戦前に楽浪付近の墓から木簡が1点発見された。ついで1975年に新羅の王宮、月城の雁鴨池から40点が出土し、三国時代と統一新羅時代の遺跡から多数の木簡が発見されている。2013年頃までの発見数は35遺跡約750点と少ないが、日本の古代史にも関わる重要な知見が得られている。 日本最古の木簡は640年代(7世紀中程)であり数が多くなるのは680年代の天武天皇の時代からだが、朝鮮では7世紀前半のものが見つかっている。京畿道河南市の二聖山城でみつかった608年の木簡や、慶州市月城垓子から出た木簡の書き方は、日本の前白木簡の起源と考える説がある。また従来日本の国字と考えられていた椋(くら)、鎰(かぎ)といった字が朝鮮半島に由来すると出土木簡から推測する研究者がいる。 漢簡と同様に、朝鮮では、側面にも書いた觚が使用された。四面あるいはそれ以上の面を持つ柱の各面に記したものである。日本の木簡は表と裏に書く板状のものが大半で、棒状のものはごく珍しい。觚の中には、長大な木に『論語』の一部を記した論語木簡があり、これには穴埋め問題対策用の試験勉強用具という説がある。また高麗時代の沈没船木簡も注目される。モンゴルの侵攻から島に避難していた事情を反映したもので、4隻189点が見つかっている。
※この「朝鮮の木簡」の解説は、「木簡」の解説の一部です。
「朝鮮の木簡」を含む「木簡」の記事については、「木簡」の概要を参照ください。
- 朝鮮の木簡のページへのリンク