朝鮮の水軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 17:37 UTC 版)
三方を海に囲まれ中国ほどの大河を持たない朝鮮半島では、古い時代から海上交通の比重が高く、沿岸部では海の船上生活に慣れた海民が活躍した。最初の統一王朝新羅の時代には、清海鎮大使張保皐が中国・日本まで股にかけた東アジアの大海上勢力を築きあげた。 第二の統一王朝高麗は半島の南北から租税の米穀を首都の開城に廻送するために海上ルートを利用し、また北方勢力に攻められたときには海を活用した。13世紀には、高麗はモンゴル帝国の攻撃を避けるために首都を江華島に移して数十年にわたる抗戦を続けた。モンゴルの元朝に服属した後は、属国としてその日本征討に多大な負担を払って水軍の将兵や船舶を提供するように命令され、多くを失った。日本沿岸で発見された元寇の船のほとんどは高麗船であった。 14世紀後半になると、高麗も中国と同じように倭寇の入寇を受けるようになり、しばしば多大な被害を受けた。倭寇は数百艘からなる船団をなして半島沿岸部の諸都市を焼き、高麗の海船を襲って人と米を略奪した。倭寇は高麗正規軍とほぼ互角の戦力を有していたが、高麗は中国から賜った火薬を使用することで倭寇を追い込んでいき、李成桂が倭寇の首領阿只抜都を討伐したことで前期倭寇は壊滅した。 高麗は水軍の兵力を維持するために元の千戸制・明の衛所制にならい、沿海の諸州郡の水上生活になれた住民を3戸に1戸の割合で水軍に編入し、水兵を拠出しなかった戸には免税の代償に兵士の家族の扶養を義務付ける水軍万戸の制をしいた。高麗にとってかわった李氏朝鮮もこの制を引き継ぎ沿海部に水軍万戸を設定、それを統制する役所として水軍万戸府をおいた。また、朝鮮は行政区画である道ごとに水使(水軍節度使)を置き、各道の水軍を統括させた。特に日本に面する南方に位置し、道内に複雑な多島海域を有する全羅道と慶尚道の2道にはそれぞれ左右2員の水使が置かれた。道内の水軍万戸はそれぞれ15万戸と多かったが、海上交通の治安維持が目的であり、日本の室町幕府の衰退によって再度活発化した後期倭寇(主に中国人からなる)に対することしか念頭になかった。 1592年に始まる日本軍の侵攻(壬辰/丁酉倭乱、文禄・慶長の役)で、朝鮮水軍は当初、壊滅状態に陥ったが、全羅左水使李舜臣が自ら建造を命じたと言われる亀甲船を2、3隻含む数十隻の艦艇を率いて反撃。日本軍に大きな被害を与えた。
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