慶長の役での五島勢とは? わかりやすく解説

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慶長の役での五島勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:33 UTC 版)

五島氏」の記事における「慶長の役での五島勢」の解説

慶長元年1596年9月秀吉再度朝鮮出兵の命を下した秀吉作戦目標全羅道徹底的に撃滅し、なるべく忠清道京畿道にも進撃し、その達成後は拠点となる城郭建設し在番城主決めその他の諸将帰国させるというものだった在朝鮮の2万守備軍を含め総勢141500人が朝鮮半島進撃開始した五島玄雅は、小西行長の軍に属し閑山島攻略参加し打ち破っている。 日本軍全羅道から忠清道掃討順調に行い反撃してきた明軍稷山の戦い蹴散らし首都漢城脅かし京畿道にも進撃し作戦目標達成する朝鮮南岸撤収して城郭建設始めた慶長2年1597年12月建設中蔚山倭城が明の援将経理楊鎬率い5万7千の大軍包囲された。蔚山城の守将浅野幸長援軍駆けつけ加藤清正未完成の城と兵糧備蓄など籠城準備整わない状態により苦し戦い強いられたが、幾度も明軍撃退し多く死傷者出した明軍戦意喪失させた。五島玄雅毛利秀元らの援軍参加し、得意の水軍率いてこれを救援明軍背後突き突撃した。これを見た加藤浅野篭城軍打って出て、明軍破り追撃した明軍戦死者2万にも達した慶長3年1598年1月1日のことだった。 秀吉は、1月17日寺沢広高通じて雅に、「今度大明蔚山取還之由注進付 而為後巻雖押出候敵引退之由 既に自此方安芸中納言 増田右衛門 因幡但馬大和紀伊九鬼父子等可取立旨雖被仰付候右之分候間不及是非候 云々」の朱印状とともに小袖一服道服一服与えた。さらに8月、玄雅がいったん帰朝し家督相続御礼のために大坂城伺候したさい、秀吉抜群戦功愛でて「豊臣」の姓を名乗ることを許した慶長3年1598年五島勢は、小西行長松浦鎮信有馬晴信大村喜前とともに順天東南10キロメートル光陽湾岸築かれ順天倭城守っていた。10月2日から4日にかけて明・朝鮮軍が水陸から順天倭城攻撃したが、これを撃退する順天の戦い)。この戦い先立つ8月18日、既に秀吉逝去していたが、このことは在朝日本軍には秘匿されていた。10月15日五大老の名において在朝日本軍撤退命令出され朝鮮より撤退する事となったが、小西軍に属していた五島勢は共に明水軍・朝鮮水軍海上封鎖受けて撤退阻害された。五島勢を含む小西軍を救うため、島津義弘宗義智立花宗茂高橋統増寺沢広高水軍編成し救援赴く島津らの救援水軍明・朝鮮の水軍攻撃向かって露梁海戦起きたため、封鎖解けた隙をついて五島勢を含む小西軍の船団脱出成功したため朝鮮出兵終息した。この戦役通じて五島勢と島津勢は極めて親しく付き合い島津勢がたびたび五島勢に加勢して戦ったという。

※この「慶長の役での五島勢」の解説は、「五島氏」の解説の一部です。
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