慶長の役と秀吉の死とは? わかりやすく解説

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慶長の役と秀吉の死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 17:01 UTC 版)

豊臣政権」の記事における「慶長の役と秀吉の死」の解説

石田三成小西行長らによって進められていた明との講和決裂し慶長2年1597年)には再び、一部駐屯中の朝鮮出兵が行なわれた(慶長の役)。『浅野文書』によると、この再出兵の目的は赤国(全羅道)を残らず成敗し余力をもって青国忠清道)その他を討つこととされている。日本軍は、漆川梁海戦朝鮮水軍壊滅させる進撃開始し全羅道道都全州占領忠清道稷山明軍交戦稷山の戦い双方とも自軍勝利記録)した後、京畿道安城竹山まで進撃した日本軍は約2ヶ月全羅道忠清道席巻し、京畿道への進出果たし目的達すると、拠点となる城郭倭城建設のために朝鮮半島南岸撤収し各地新たな城の築城開始するその中で最も東端位置する蔚山城未完成のまま、年末から翌慶長3年1598年初めにかけて明・朝鮮軍の攻撃を受けるが撃退成功する第一次蔚山城の戦い)。 9月末から10月初めにかけて明・朝鮮軍は攻勢をかけ、日本軍順天城泗川城、蔚山城攻撃したがすべて撃退した。特に泗川城では島津義弘明・朝鮮軍を大破した泗川の戦い)。 明・朝鮮軍の攻勢撃退した日本軍であったが、既に8月18日秀吉死去していた(享年62)。秀吉という中核失って不安定化した豊臣政権は、対外戦争継続できるような状況にはなく、10月になって朝鮮からの帰国命令が発せられた。帰国段階明・朝水軍妨害を受け、露梁海戦を戦うことになるが、11月末までに全軍帰国果たした

※この「慶長の役と秀吉の死」の解説は、「豊臣政権」の解説の一部です。
「慶長の役と秀吉の死」を含む「豊臣政権」の記事については、「豊臣政権」の概要を参照ください。

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