慶長伏見地震による初代大仏の倒壊
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「方広寺」の記事における「慶長伏見地震による初代大仏の倒壊」の解説
文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により、開眼前の初代大仏は倒壊した。義演准后日記によると胸が崩れ、左手が落ち、全身にひび割れが入ったという。ただし大仏の光背は無傷で残ったという。工期短縮のために銅製ではなく、木造としたことが裏目に出た。秀吉は憤り、義演准后日記には「本尊御覧、早々崩しかえしのよし仰す (秀吉公が(損壊した)大仏を御覧になり、早く取り壊せと命じた)」と、宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえと命じた」と記録されている。また一説には、秀吉は怒りのあまり、大仏の眉間に矢を放ったと伝わる。なお初代大仏殿は地震による損壊を免れた。秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、由緒ある信濃善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)(善光寺如来は大名の意向で各地を流転し、当時は甲斐善光寺に在り)を移座して本尊に迎え、開眼法要を行うことを計画。木食応其の尽力により、慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された(義演准后日記)。善光寺如来は、大仏を取り壊した台座の上に宝塔(厨子のようなものか?)が造られ、そこに安置されたという。無傷であった光背もそのまま残されていたという。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(『鹿苑日録』『義演准后日記』)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった。ただ巨大な大仏殿に小ぶりな善光寺如来は不釣り合いであり、その異様さを嘲笑する声もあったという。秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥したが、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年8月17日、善光寺如来は信濃国の善光寺へ戻されることとなった。しかし秀吉は8月18日に死去した。秀吉の死は外部に伏せられ、8月22日には本尊の無い大仏殿で、大仏殿の完成を祝う大仏堂供養が行われた。
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