慶長伏見地震による初代大仏の倒壊とは? わかりやすく解説

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慶長伏見地震による初代大仏の倒壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:35 UTC 版)

方広寺」の記事における「慶長伏見地震による初代大仏の倒壊」の解説

文禄5年7月13日1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により、開眼前の初代大仏倒壊した義演准后日記によると胸崩れ左手落ち全身ひび割れ入ったという。ただし大仏光背無傷残ったという。工期短縮のために銅製ではなく木造としたことが裏目に出た秀吉憤り義演准后日記には「本尊御覧早々崩しかえしのよし仰す (秀吉公が(損壊した)大仏御覧になり、早く取り壊せ命じた)」と、宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れ大仏人びと救えるはずもないとして大仏粉々になるまで砕いてしまえと命じた」と記録されている。また一説には、秀吉怒りのあまり、大仏眉間に矢を放ったと伝わる。なお初大仏殿地震による損壊免れた秀吉は、夢のお告げ称して倒壊した大仏代わり由緒ある信濃善光寺如来善光寺式阿弥陀三尊)(善光寺如来大名意向各地流転し当時甲斐善光寺在り)を移座して本尊迎え開眼法要を行うことを計画木食応其尽力により、慶長2年1597年7月18日善光寺如来が京に到着し大仏殿遷座された(義演准后日記)。善光寺如来は、大仏取り壊した台座の上宝塔(厨子のようなものか?)が造られ、そこに安置されたという。無傷であった光背そのまま残されていたという。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(『鹿苑日録』『義演准后日記』)、如来一目拝もうとする人々押し寄せるようになった。ただ巨大な大仏殿小ぶり善光寺如来不釣り合いであり、その異様さを嘲笑する声もあったという。秀吉は翌慶長3年1598年)病に臥したが、これは善光寺如来祟りではないかということで、同年8月17日善光寺如来信濃国善光寺戻されることとなった。しかし秀吉8月18日死去した秀吉の死は外部伏せられ8月22日には本尊の無い大仏殿で、大仏殿完成を祝う大仏供養が行われた。

※この「慶長伏見地震による初代大仏の倒壊」の解説は、「方広寺」の解説の一部です。
「慶長伏見地震による初代大仏の倒壊」を含む「方広寺」の記事については、「方広寺」の概要を参照ください。

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