慶長国絵図〈控図/周防国、長門国〉
主名称: | 慶長国絵図〈控図/周防国、長門国〉 |
指定番号: | 53 |
枝番: | 0 |
指定年月日: | 1989.06.12(平成1.06.12) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 歴史資料 |
ト書: | |
員数: | 2鋪 |
時代区分: | 江戸 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 江戸幕府は幕藩体制の確立に際し、国内の実勢把握のため、国絵図・郷帳の作製とその提出を諸大名に命じ、慶長・正保・元禄・天保の四度にわたり、これを実施した。うち慶長国絵図は慶長九年(一六〇四)から同十年にかけて提出された。 宇部市立図書館保管にかかる慶長国絵図は、周防国・長門国の二鋪を存し、萩藩主毛利家の永代家老福原家の旧蔵で、福原家の家老であった紀藤家から寄贈され、現有に帰した。 両国絵図の体裁は、いずれも折仕立装で、共に瀬戸内を手前にした上下固定の位置に仕立てられ、方位表示はなく、縮尺はおよそ四三二〇〇分の一で、著色をもって描かれている。 裏面(現状では折畳んだ上部)には「〈上/〉防州〈京進之扣/〉」「〈上/〉長州〈京進之扣/〉」の墨書が認められる。また両図とも裏面の四隅には「福原封」黒長方印が捺され、料紙には良質の厚手鳥ノ子紙を用いるなど、提出図の控図としての姿を伝えている。 その内容は、国内の郡界を紫線にて示し、郡付枠は朱・墨の短冊型の二重枠で、枠内には郡名、石高、田畑数、物成高を記載している。村名は小判型内に記し、石高を枠外に注し、街道は朱色、水路・一里塚の記載はなく、山岳部は鳥瞰にて描かれ、樹木等は比較的詳細に示されている。城郭は景観描写で、海辺の砂洲や砂嘴等は白色で描かれている。 両国の国境部に当たる周防の吉敷郡「賀川」の上部、長門の厚東郡「四ケ小野」の下部に各々合せ印(□朱筆)があって、両図の接合を容易にする形態で仕立てられ、両図一対の体裁で作製されたことがうかがえる。 慶長国絵図の遺例は少なく、他に九例が知られるが、いずれも後世の写図であって、提出図を逸した現在、本図は伝来経緯の明らかな唯一の控図として政治史、近世経済史研究上等に注目される。 なお、国絵図としては、国立公文書館保管になる国絵図並郷帳(紅葉山文庫伝来)が重要文化財に指定されている。 |
歴史資料: | 形削盤 徳島藩御召鯨船千山丸 徳川家康関係資料 慶長国絵図 文禄三年島津氏分国太閤検地尺 日仏修好通商条約 日本図 |
慶長国絵図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 05:02 UTC 版)
江戸幕府を開いた徳川家康は、豊臣政権に倣い、慶長10年(1605年)9月に全国の諸大名の領地と寺社領の分布・石高に関する調査を行い、西尾吉次を東日本、津田秀政を西日本の担当奉行に任じた。この調査に基づいた慶長国絵図・郷帳が作成されたとされる。慶長期の国絵図・郷帳はその後の江戸城火災などで焼失したと思われ、正本は現存しない。慶長国絵図の控え・写本等で現存しているのは11ヶ国1島分で、西日本に限られている。そこで秋澤繁は、慶長国絵図・郷帳の徴収は全国に及んだのではなく、西国大名政策として西日本に限られていたとする説を出している。
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