慶長郷帳・国絵図とは? わかりやすく解説

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慶長郷帳・国絵図

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:25 UTC 版)

石高」の記事における「慶長郷帳・国絵図」の解説

慶長9年(1604年)、江戸幕府諸国の有力大名郷帳国絵図提出命じ慶長15年(1610年)までに上納完了したしかしながら慶長郷帳慶長国絵図正本現存せず、郷帳写本飛騨国壱岐国大和国の3国分国絵図模写西国11国1島分に限られており、郷帳国絵図提出命じられたのは西日本のみではないかとする説もあり、慶長郷帳・国絵図製作の全容不明な点が多い。郷帳には田畑内訳含めた村高物成列記され、領知関係や、必要に応じて小物成高、寺社領高、荒地損害等の付記が行われているが、新田高の記載はなく、使役格式等を決め表高内高乖離始まっている。本表では島原松平文庫御当家雑記収録日本国知行高之覚」記載江戸時代初期高を仮に慶長郷帳高とする。「日本国知行高之覚」には出羽国高について「内拾万石上杉弾正分入」との注釈があり、上杉景勝慶長14年(1609年)に10万石の軍役免除されたことと関係する思われる。なお徳所領中心に幾つかの国で石高減っているが、これは再検地の際に石盛改訂されたことや、表高優先石高設定したことと関連する(#石高における田畑、新田高の割合実体経済参照)。また国境頻繁に変えられており、例え西宮市立郷資料館慶長十年摂津国絵図』によると摂津国石高290068石6斗、外に欠郡内東成61080石が河内国御帳入とあり、慶長年間中頃から寛永年間まで一時的に淀川以東の闕郡(住吉郡東成郡西成郡一部)が河内国編入され正保年間前には再び摂津国所属となったことが判る

※この「慶長郷帳・国絵図」の解説は、「石高」の解説の一部です。
「慶長郷帳・国絵図」を含む「石高」の記事については、「石高」の概要を参照ください。

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