慶長金の鋳造量
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 13:50 UTC 版)
慶長期の貨幣すなわち(小判および丁銀)は「手前吹き」と称して、金細工師が自己責任で地金を入手し、貨幣の形に加工した上で、金座に納め、極印が打たれ発行される形式であった。また明暦の大火による『後藤役所書留』などの焼失も重なり慶長金銀の正確な鋳造数の記録は無い。 一方、明治8年(1875年)に大蔵省が刊行した『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』の中で、世上流通高を10万両、海外流出高を410万両と見積もり、元禄金などへの改鋳高を10,527,055両として推定した数値によれば、小判および一分判の合計で14,727,055両である。しかしながら『図録 日本の貨幣』では海外流出高を高く見積もりすぎているとして、輸出高として『本朝寳貨通用事略』による2,397,600両を採用し、千枚以下の端数は丸め鋳造高を13,024,000両としている。 一分判は総鋳造量の五割の額を吹き立てるよう指示されたとされる。 佐渡判については元和7年(1621年)より元禄8年(1695年)までの鋳造高は小判約138万両、一分判約7万両(28万枚)と推計される。 明暦の大火以降、万治2年(1659年)、江戸城三の丸の地で御金蔵の焼損金銀を用い約170万両の小判が鋳造され、茣蓙目(ござめ)の粗いものがこのとき鋳造されたものとされ、これを特に江戸判(えどばん)という場合がある。 また、江戸城の御金蔵に備蓄されていた分銅金を鋳潰して、延宝4年(1676年)に57,800両、天和元年(1681年)に76,160両、それぞれ慶長金を鋳造している。 金座における鋳造手数料である分一金(ぶいちきん)は鋳造高1000両につき、手代10両、金座人10両2分、吹所棟梁4両であった。
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