慶長の役と武断派
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慶長2年(1597年)、再出兵で慶長の役が始まると、渡海して西生浦に着陣した。 日本軍は全羅道・忠清道に進撃して明・朝鮮軍を破り、朝鮮南部に帰還し、さらに多くの倭城の築城を開始したが、これが諸将の怠慢であると秀吉の怒りを買って出撃を催促されたので、幸長・毛利秀元・黒田長政らは再び北上した。幸長は彦陽に進んで前哨となり、加藤清正は10里離れた場所に蔚山城を築き始めた。12月21日夜、突如、明軍が浅野勢の歩哨を急襲した。幸長は翌日に反撃を試みるが、明軍は数万の軍勢であったので苦戦に陥り、幸長自身も負傷、馬印を奪われた。家臣亀田高綱が敵将を斬って混乱した隙に、蔚山城に撤退した。この時、清正は不在で、加藤清兵衛(直政)らが防戦したが、明・朝鮮軍は外郭を突破したため、諸将は手分けして曲輪を防衛しなければならなかった。幸長は太田一吉・(毛利家臣)宍戸元続らと二の丸・本丸を守った。23日、明将李如梅・楊登山が大手口に陣取って、明・朝鮮軍は四方から城を包囲した。急を聞きつけた清正が機張から500騎を率いて戻ってきたので、城兵の士気は上がったが、築城途中で城内に食糧備蓄がほとんどなく、すぐに兵糧が尽きたため、雑兵が夜に城を出て死人の腰兵糧を漁るほどであった。慶長3年(1598年)1月3日、日本軍の救援部隊が到着し、明将楊鎬は慶州への撤退を決定するが、4日、城内からも打って出て明・朝鮮軍は撃破された。 詳細は「蔚山城の戦い」を参照 戦後、傷病兵を先に帰国させた後、幸長は西生浦に戻り、3月16日に帰国の途につく。8月の秀吉の死去に伴い、太刀・大三原(国の重要文化財)を遺物として賜った。 同年冬頃から奉行衆筆頭で文治派の石田三成と激しく対立し、幸長・細川忠興・加藤清正・福島正則・加藤嘉明・黒田長政・蜂須賀至鎮ら七人衆(七将)で徒党をなし、武断派と称され、五大老筆頭・徳川家康に与した。 慶長4年(1599年)、三成と家康の争いの中では、幸長は家康の伏見屋敷を警備していた。閏3月3日に前田利家が亡くなると、翌4日に武断派の七将が三成の大坂屋敷を襲撃するという噂が流れて、三成は宇喜多秀家の屋敷に隠れ、前田玄以が城番を務める伏見城へ逃れた。七将も伏見へ押しかけて(伏見屋敷の)家康に三成追討の許可を得ようとしたが、家康は同調せず、調停すると称して、10日、三成を結城秀康を伴わせ、三成を佐和山城へ送って蟄居とした。13日、替わって家康が伏見城の西の丸に入城したので、人々は家康が「天下殿になられ候」と噂したという。 慶長5年(1600年)、家康が会津征伐へ出立するとこれに長政・幸長父子で従軍。下野国小山で三成が謀反を起こしたとの情報が入って数日滞陣している時、軍議の席で幸長は進み出て、上方の妻子が人質に取られているといって疑念を持たないでもらいたいと言って、家康と同盟を新たにして、先鋒の一つに任命された。東海道を進んで、8月22日、木曽川渡河に際して幸長・池田輝政は西軍の押さえとなり、西軍が攻撃してくると新加納川を渡って木造長政らを撃破した。23日、石田三成家臣・柏原彦左衛門の籠もる瑞龍寺山砦を攻撃し、彦左衛門の首を獲り、敵兵500余を討ち取った。 「河田木曽川渡河の戦い」、「米野の戦い」、および「岐阜城の戦い」も参照 9月14日、家康が赤坂岡山に着陣すると、南宮山の毛利秀元・安国寺恵瓊・長束正家ら西軍勢に備えとして、池田と共に垂井一里塚付近に陣を構えた。このため終日対峙したままで終わり、本戦には加わらなかった。 「関ヶ原の戦い」も参照 戦後、福島・池田らと京都に行って禁裏を守護した。諸国の制札でも福島・池田・浅野3人の連署の判形を出して洛中洛外の暴虐の者を禁じた。21日、井伊直政と共に大坂城へ向かい、西の丸に籠もっていた毛利輝元との和議を仲介した。24日、輝元が退出すると、代わって幸長が西の丸に入り、家康をここで迎え入れた。10月、軍功を賞されて、紀伊国で37万6,560石を与えられ、和歌山城主となった。 慶長6年(1601年)、従四位下・紀伊守に叙任された。慶長8年(1603年)、豊臣姓が確認される。同年7月28日、豊臣秀頼と千姫の婚儀のために大坂城へ登城した。
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