慶長5年の竹ヶ鼻城の戦いとは? わかりやすく解説

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慶長5年の竹ヶ鼻城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 14:48 UTC 版)

竹ヶ鼻城の戦い」の記事における「慶長5年の竹ヶ鼻城の戦い」の解説

豊臣秀吉死後着々と実権掌握する徳川家康対し慶長5年1600年)に石田三成反旗を翻した岐阜城主の織田秀信三成方に付いたため、秀信の配下だった竹ヶ鼻城杉浦重勝西軍加わった清洲城発した東軍は、まず岐阜城攻めるため、二手分かれて木曽川を渡ることになった8月21日池田輝政浅野幸長18,000の兵は河田(こうだ)の渡しに、福島正則細川忠興京極高知黒田長政加藤嘉明藤堂高虎田中吉政井伊直政本多忠勝16,000の兵は下流の起(おこし)の渡し到着。翌22日、輝政らは木曽川渡り米野交戦して織田方を敗走させた(河田木曽川渡河の戦い米野の戦い)。 一方、起の渡しでは、対岸杉浦重勝が、近隣加賀野井城の主を失った加賀井重望家臣らを加え、秀信からの援軍梶川三十郎花村左衛門三成からの援軍毛利広盛らと柵を作って布陣し鉄砲撃ちかけてくるうえに、砂地のため馬で渡河するのは困難だった。そこで正則らは、21日夜さらに下流加賀野井から船や筏で渡河し、西軍攻撃した22日午前8時、重勝らは竹ヶ鼻城退却し本丸を重勝、二の丸梶川花村毛利らが守備渡河した東軍そのまま22日9時に竹ヶ鼻城正面攻撃正則家臣らに負傷者出たが、間もなく正則旧知間柄だった二の丸梶川花村毛利らが勧告受けて降伏し二の丸福島軍を呼び込んだ本丸孤立した重勝は降伏勧告拒絶最終的に手勢36となったがそれでも抵抗続けた正則養子福島正之奮戦により本丸門が破られるに及び、午後4時、重勝は自ら本丸打って出大槍駆使して奮戦したのち、を門に立てかけ、城に火を掛け自刃した。重勝の周りでは生き残っていた家臣7名が自刃していたと伝わる。 正則らは輝正らと合流し翌日23日には岐阜城落城させた(岐阜城の戦い)。9月15日には、関ヶ原の戦い東軍勝利することになる

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