慶長5年の竹ヶ鼻城の戦い
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「竹ヶ鼻城の戦い」の記事における「慶長5年の竹ヶ鼻城の戦い」の解説
豊臣秀吉の死後、着々と実権を掌握する徳川家康に対し、慶長5年(1600年)に石田三成が反旗を翻した。岐阜城主の織田秀信は三成方に付いたため、秀信の配下だった竹ヶ鼻城主杉浦重勝も西軍に加わった。清洲城を発した東軍は、まず岐阜城を攻めるため、二手に分かれて木曽川を渡ることになった。8月21日、池田輝政・浅野幸長ら18,000の兵は河田(こうだ)の渡しに、福島正則・細川忠興・京極高知・黒田長政・加藤嘉明・藤堂高虎・田中吉政・井伊直政・本多忠勝ら16,000の兵は下流の起(おこし)の渡しに到着。翌22日、輝政らは木曽川を渡り米野で交戦して織田方を敗走させた(河田木曽川渡河の戦い、米野の戦い)。 一方、起の渡しでは、対岸に杉浦重勝が、近隣の加賀野井城の主を失った加賀井重望の家臣らを加え、秀信からの援軍梶川三十郎・花村半左衛門や三成からの援軍毛利広盛らと柵を作って布陣し、鉄砲を撃ちかけてくるうえに、砂地のため馬で渡河するのは困難だった。そこで正則らは、21日夜さらに下流の加賀野井から船や筏で渡河し、西軍を攻撃した。22日午前8時、重勝らは竹ヶ鼻城に退却し、本丸を重勝、二の丸を梶川・花村・毛利らが守備。渡河した東軍はそのまま22日9時に竹ヶ鼻城を正面攻撃。正則の家臣らに負傷者が出たが、間もなく正則と旧知の間柄だった二の丸の梶川・花村・毛利らが勧告を受けて降伏し、二の丸に福島軍を呼び込んだ。本丸に孤立した重勝は降伏勧告を拒絶。最終的には手勢36名となったがそれでも抵抗を続けた。正則養子の福島正之の奮戦により本丸門が破られるに及び、午後4時、重勝は自ら本丸を打って出て大槍を駆使して奮戦したのち、槍を門に立てかけ、城に火を掛け自刃した。重勝の周りでは生き残っていた家臣7名が自刃していたと伝わる。 正則らは輝正らと合流し、翌日23日には岐阜城も落城させた(岐阜城の戦い)。9月15日には、関ヶ原の戦いで東軍が勝利することになる
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