慶賀使の禁止と朝貢の終了
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「慶賀使の禁止と朝貢の終了」の解説
日本政府の琉球に対する対応に大きな影響を与えたのが、台湾出兵問題であった。出兵問題の発端となったのは1871年に発生した宮古島島民遭難事件であった。明治政府としても事件後、いきなり出兵という強硬策が決まったわけではない。1873年3月には外務卿の副島種臣らが日清修好条規の交渉のために清に派遣されたが、その中で宮古島島民遭難事件の事件処理問題についても話し合われた。そして副島らの出張中に政府内では征韓論の議論が沸騰していた。結局岩倉使節団の帰国後、征韓論は退けられ、政争に負けた西郷隆盛らが下野する明治六年政変が起きる。その政変下、副島種臣も下野する。 征韓論が退けられた後、急速に浮上したのが台湾出兵であった。出兵を主導した大久保利通や大隈重信としては、主として不平士族の不満を解消させることを目的として、征韓の代わりに台湾出兵を計画したのであるが、加えて日本領である琉球の住民が台湾で虐殺されたことに対する膺懲という名分を利用して、清と琉球との関係を断ち切る口実にしようと考えたのである。 出兵は西郷従道を司令官として、1874年5月に台湾に上陸し、比較的短期間で戦争目的は達成した。しかし対清交渉を睨み、台湾での駐留を続けた。清は日本に出兵は自国領土への侵略であると激しい抗議を行い、結局大久保利通を全権とした使節を清に派遣して事後処理の交渉を行うことになった。交渉は難航し、決裂寸前にまで陥ったが、イギリスが仲介に入ったことによって両国の妥協が成立した。10月31日には台湾出兵は「日本国属民等」に台湾原住民が害を及ぼしたために日本が詰責したもので、義挙として行ったもので清としても不正な行為とは見なさないと規定した上で、清側が宮古島島民遭難事件の被害者救済と、作戦遂行に伴い日本軍が台湾に建設した道路等の買収費名目で補償金を支払うこと、日本側は台湾から即時撤兵することで合意した。実際問題として清が支払う補償金は少額であり、とても戦費を賄うに足りる額では無かったが、大久保は出兵の名目と保証金の支払いという名分が認められたことで妥協に応じた。なお台湾出兵問題について交渉中であった1874年7月、琉球関連の業務は外務省から内務省に移管される。 清との交渉の結果、琉球の住民は「日本国属民」であると規定し、出兵が義挙であると認めたことは、清から琉球が日本領であるとの言質を取ったことになるという主張を押し立てて、琉球側との交渉に利用していく。しかし清としてはあくまで琉球は冊封国の一つで、独立国であるとの見解を崩さなかった。台湾出兵の事後処理を済ませ、1874年11月に帰国した大久保は早速琉球問題に取り掛かった。12月15日には太政大臣三条実美に琉球問題に関する意見書を提出している。大久保の意見書提出後、琉球側に高官の上京が命じられた。1875年3月末から上京した高官と大久保は交渉を繰り返すものの議論は平行線を辿った。5月には協議はいったん中断され、代わりに内務大丞松田道之が琉球に派遣されることになる。これは琉球側との直接交渉の必要性があったためであるが、もう一つ清への慶賀使の派遣問題がクローズアップされてきたためでもあった。 この間、清では同治帝が亡くなり、光緒帝が即位していた。琉球としては慣例として亡くなった先帝のための進香使、そして新帝の即位を慶賀する慶賀使を派遣することになる。進香使と慶賀使の派遣が実行されたら、内外に改めて琉球が清の冊封国であることをアピールすることになる。日本側としては何としてでも使節派遣を止めなければならなかった。また1875年3月には前年派遣の進貢使が北京に到着した。その情報を聞きつけた日本側と清側との間に使節への対応を巡ってトラブルが発生した。事態を重く見た日本政府は進貢、慶賀使などの派遣、冊封使の受け入れを禁止し、琉球と清との外交関係を断絶させる決定をした。琉球に派遣された松田道之は7月14日に首里城を訪れ、琉球側に清への進貢、慶賀使などの遣使の禁止、そして清からの冊封使受け入れの禁止を命じた。結果として最後に清に派遣されたのは1874年派遣の進貢使であった。
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