慶良間諸島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)
3月23日に、沖縄本島に延べ355機の艦載機による空襲があり、その他先島諸島・大東島地区・奄美地区にも艦載機の空襲があった。その後、日本軍の索敵機が、同日午前10時30分に沖縄本島南東90kmに機動部隊を発見、さらに夕刻沖縄本島東方100kmに艦艇群(艦種不詳)も発見している。 これに対する日本側の情勢判断は、3月19日時点では、大本営陸軍部は次のアメリカ軍の侵攻地を台湾方面の公算大と判断しており、第32軍も23日時点では大本営の判断もあって、沖縄への本格的な侵攻であるかの判断ができなかった。しかし、翌24日に沖縄本島南部へ戦艦以下30隻のアメリカ軍艦船が現れ艦砲射撃を開始、また延べ600機にも上る艦載機による激しい空爆が行われた為、第32軍司令部はアメリカ軍の上陸が沖縄に行われると判断し、甲号戦備 移行を命じた。 日本海軍の連合艦隊司令長官も、近く沖縄へアメリカ軍が来攻するものと判断し、回天特攻「多々良隊」の潜水艦4隻にも出撃準備を命じた。また同日に天一号作戦の予令を発令、第3航空艦隊と第10航空艦隊に移動準備を指示している。多々良隊の「伊44潜」「伊47潜」「伊56潜」「伊58潜」は3月28日から順次沖縄方面に出撃したが、戦果を挙げることなく「伊44潜」と「伊56潜」の2隻を失った。 空襲翌日の3月24日には早くも日本側の反撃が開始され、天山艦攻による雷撃、翌25日未明には陸攻銀河による爆撃でアメリカ艦隊を攻撃し、駆逐艦2隻、その他2隻を損傷させている。また、沖縄の海軍根拠地隊司令官の大田実少将が、運天港の特殊潜航艇部隊である第2蛟龍隊に出撃を命じている。蛟龍はこの戦いが初陣となったが、駆逐艦「ハリガン(英語版)」撃沈後に壊滅した。この日、第32軍参謀長の長勇は司令部壕の坑口に「天ノ巌戸戰闘指令所」の木札を掲げた。 3月26日、アメリカ軍は、沖縄本島への上陸に先立ち泊地や水上機基地などを設置するため、第77歩兵師団を慶良間諸島の座間味島など数島へ上陸させた。日本軍は慶良間諸島は地形が険しい狭い島で航空基地の適地もなく、沖縄本島に先立っての侵攻を想定していなかったため、地上部隊をほとんど配備していなかった。展開していたのは、本島防衛任務の四式肉薄攻撃艇(マルレ)部隊である陸軍海上挺進戦隊3個とその支援部隊程度であった。第32軍司令部は出撃困難と判断して機密保持のためマルレの処分を命じた。すでに事前空襲で300隻のマルレの多くを地上撃破されていた各部隊は、命令に従って島の奥へ後退した。慶留間島所在のマルレのうち4隻のみが出撃して、うち2隻が攻撃後に本島へ生還した。アメリカ軍は29日までに慶良間諸島全島を占領した。アメリカ軍第77歩兵師団の記録によると、31日までに日本兵530人が戦死・121人が捕虜となり、アメリカ兵31人が戦死・81人が負傷した。 アメリカ軍の慶良間諸島上陸と同じ3月26日に、日本側では陸軍第10方面軍司令官と海軍連合艦隊司令長官が、天一号作戦を発令した。同日中には早速、陸海軍の通常攻撃機46機が薄暮にアメリカ機動部隊を攻撃、また第8飛行師団誠第17飛行隊の九九式軍偵6機とその他8機合計14機の特攻機が慶良間沖のアメリカ艦隊を攻撃した。本特攻隊は少数ながらも戦果は大きく、駆逐艦「オブライエン」大破・死傷者126名、駆逐艦「キンバリー」中破・死傷者61名、他に軽巡洋艦「ビロクシ」と駆逐艦2隻を損傷させている。翌27日には沖縄本島の中飛行場から出撃した第8飛行師団誠第32飛行隊と海軍神風特攻隊の銀河や彗星合計26機が嘉手納沖のアメリカ艦隊を攻撃、戦艦「ネバダ」の第三主砲塔に1機が命中、14インチ砲を破壊し59名の死傷者を出させるなど、16隻の艦船に損害を与えている。その後も沖縄本島や周辺諸島からの特攻出撃は続き、31日には誠第39飛行隊の一式戦「隼」が、レイモンド・スプルーアンス中将率いる第5艦隊の旗艦重巡「インディアナポリス」に命中、大破・航行不能にさせている。しかし、陸海軍ともに本土や台湾からの本格的な航空攻撃は4月に入ってからとなり、沖縄本島上陸前の時点では日本側の航空攻撃は未だ散発的であった。また、29日には本島配備の海上挺進第29戦隊のマルレ19隻が出撃し、中型揚陸艦1隻を撃沈している。 3月31日、アメリカ軍は慶伊瀬島に上陸した。そのうち慶伊瀬島の神山島に第420野砲群(仮訳:420th Field Artillery Group)のM59 155mmカノン砲(愛称ロング・トム)24門を布陣させ、沖縄本島の日本側陣地の奥深くまでを射程圏内に収めた。ロング・トムの射程は20,000m以上もあり、日本軍の火砲で神山島のロング・トムに対抗できそうなのは、長堂西側高地に配置してあった八九式十五糎加農砲2門のみで多勢に無勢であった。しかし、四六時中傍若無人に砲撃してくるロング・トムに手を焼いた日本軍はやむを得ず八九式十五糎加農砲に反撃を命じたが、結局、神山島までは砲弾が届かないことが判明した。4月1日にも、日本軍は第420野砲群への反撃と、上陸準備のために岩礁上で障害物除去などの作業をしているアメリカ軍に対して砲撃をしたが、アメリカ軍に被害はなかった。 那覇港内にある船舶工兵第26連隊長佐藤少佐から、ぜひ選抜隊をもって神山島に斬り込みをかけたいとの申し出が第32軍司令部にあった。アメリカ軍の絶対制海権下で斬り込みの成功は危ぶまれたが、打つ手のなかった第32軍はこの申し出を取り上げて、参謀薬丸兼教少佐を中心に準備を進めた。4月9日に西岡少尉以下半数が糸満漁夫で編成された50名の斬り込み部隊は、協力予定の海軍の大発動艇が故障で参加できなかったので、刳舟を人力で漕いで神山島に突入した。生還者は西岡少尉以下わずか十数人と犠牲は大きかったが、ロング・トムの何門かが破壊されて、3日間に渡って神山島からの砲撃が止まったため、第32軍全軍が西岡らの英雄的行為に感謝している。
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