撃沈後
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旗艦鹿島に乗艦してトラック泊地からラバウルに進出していた南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官は、当時の心境について「東郷大将ハ如何ナサレシヤ」と思い出して平静を務め、「大事ナ陛下ノ御艦、而モ大事ナ空母ヲ最初ニ沈メタノガ自分ダト思フト実ニ自責ノ念ニ耐ヘズ。切腹シテスムナラ易イコトナルモ、切腹シタッテ沈ンダ艦ヲ如何セン。如何ニシテモ申訳ナシ、残念ダ、不運ダトモ思フ」と回想している。連合艦隊参謀長宇垣纏少将は陣中日誌『戦藻録』の中で、祥鳳の沈没について「祥鳳は特務艦剱崎の改造に依りて本年早々竣工第四艦隊に入れたるもの其壽命の短かりしを惜む。同艦飛行機の内戰闘機の一部は救助せられたるも艦攻は如何にせしや。大戰果の夢は去れり。戰は相手あり。思ふ様には行かぬものなり。敵の来襲豫期しある場合、今少し統一ある兵力の使用出来ざるものや。」と言及している。 真珠湾空襲以降、日本軍の攻勢に押されていた連合国軍にとって、祥鳳(アメリカ軍認識では龍鶴)の撃沈は、日本海軍主力艦艇の初の撃沈であった。その戦果は戦意高揚のため大いに宣伝されたが、実際には大破だった翔鶴も撃沈したと錯覚していた。対する日本軍は誤認戦果もあって、珊瑚海海戦の大勝利を宣言している(大本営発表)。祥鳳沈没に関しては、国民の動揺を抑えるため『給油艦を改造せる小型空母』と発表したり、表現している。また第四艦隊(司令長官井上成美中将)が受けた衝撃も相当なものだったという。戦史叢書では『兵力不足に加えて、広正面の作戦を担当していた南洋部隊としては、軽空母とはいえ、種々交渉の末ようやく与えられた、虎の子の空母であったからであろう。』と結んでいる。上記のように日本軍のポートモレスビー海上攻略構想は本海戦をもって頓挫し、珊瑚海海戦はアメリカ軍の戦略的勝利で終わった。 5月20日、航空母艦から祥鳳の削除が発表された。また水上機母艦瑞穂と同日付で軍艦籍から除籍された。
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撃沈後
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「K XVI (潜水艦)」の記事における「撃沈後」の解説
2003年5月、K XVIの残骸発見を身体障害者によるスキューバダイビングで行うプロジェクトが行われた。5月9日に探索を始めた潜水チームは、5月13日に慰霊式を行い、錨や潜望鏡とみられる船の残骸の一部を発見したが、K XVIとの確証は得られず、5月19日に調査は打ち切られた。残骸は引き上げられず、写真や映像がオランダ海軍に提供されて分析が進んだが、8月にK XVIの残骸という結論は得られないと発表された。 2004年6月21日から28日にかけて、昨年の成果を基に残骸が見つかった海域のソナーと磁力計による探査が行われた。しかしこの探査でもK XVIの残骸は見つからなかった。
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