撃沈された八阪丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 04:32 UTC 版)
第一次世界大戦中の1915年(大正4年)12月7日、ロンドンを出帆した日本郵船の八阪丸は地中海、スエズ運河を経由し日本に向う予定だった。そして英国海軍など連合国の暗号電文にてドイツ潜水艦Uボートの出没海域の情報を得ながら、戦時警戒区域である地中海を慎重に東進していたが、同年12月21日午後2時35分、八阪丸はスエズ運河の入口、ポートサイドまであと僅か140kmの場所で、Uボートの水雷攻撃を受け撃沈されてしまった。八阪丸に開設されていた逓信省の「八阪丸無線電信局」(呼出符号JYK)はただちにポートサイド海岸局(呼出符号SUB)へ無線連絡し、駆けつけたフランスの武装曳船ラボリュー号に全員救助されている。しかしこの民間商船として初の遭難通信は(敵に傍受されないように)SOSを用いない暗号電文だった。 日本の民間商船に開設されている船舶無線局のオーナーは海運会社ではなく、逓信省だった。1900年(明治33年)に施行された法律「電信法」と逓信省令により「無線電信は政府が専掌する」としたため、逓信省が民間商船に逓信省式無線機を据付け、逓信官吏練習所で養成された逓信省の通信官吏がオペレーションしていた。無線電報は逓信省による独占ビジネスだった。
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