陣中日誌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 08:04 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動陣中日誌(じんちゅうにっし)は、戦地での日誌のことをいい、大日本帝国陸軍は軍令陣中要務令で作成を命じた。陣中要務令第13篇「陣中日誌、留守日誌」第六百二、第六百三の規定及び様式を以て作成されるもので、各部隊が作成するものである。
目的
陣中日誌及び留守日誌を作る目的は次の二項とされた[1]。
甲 各部隊若しくは各人の経歴及び遭遇したる実況並び所見を記載し一には戦史の用に資し一には他日各人の勤務及び功績を銓衡するの参考に供す
乙 編成、教育、補充、休養、衛生、武器、弾薬、器具、材料、被服、装備等凡て軍事に関する事物の経験を録し将来改良の資料と為すに注意して記載すべし
第六百三 甲の目的を達せむが為には左の諸件
- 一 作為せる命令、通報、報告の全文
- 二 毎日の位置(某地を去り手某地に移る等と書し前日に同じ等と記すべからず又各地に分設して位置せるときは特に詳細に記載すべし)
- 三 皇軍、宿営、行李に関する事項
- 四 主なる時機に於ける部隊の編成表及将校同相当官の職員表
- 五 戦闘の景況(戦闘の期末を詳細に記載すべきものにして隣接部隊との関係を明確ならしめ且緊要の時機に於ける部隊位置の要図は必ずこれを添付するものとする之が為通常戦闘詳報を提出したる後その控えを添付して日誌の不備を補うものとす)
- 六 戦闘に関し生じたる事件
- 七 戦闘間使用せる地図の種類要すれば原図との差を明らかにするを要す
- 八 人馬の移動、毎日の現員(概数にて可なり)
転任(転出入の年月日を記するを要す)死傷(将校、同相当官、准士官は官職氏名を記し下士兵卒及馬匹は其数を記す)勲功者の事項等
- 九 野戦作業等の施設
其の他凡そ其の一日間に生ぜし緊要の事項(飛行(気球)中隊は毎日の航空記録を添付すべし)
以上の事を記するに方り軍隊区分に於いて自己の指揮下に入りたる他部隊の状況は隷下部隊に準じて記入し一時指揮下を脱したる隷下部隊の行動は要すれば後日蒐録してこれを補修するものとす尚以上各項の順序は之に拘泥することなく生起せし事実の経緯を明瞭ならしむるに努め時刻(当時の日出時刻、日没時刻を時時記入す)地点を詳記し且要すれば要図を附して之を明瞭ならしむるを要す又自己の部隊に影響せし事項(天候、気象、明暗、地形、道路、住民の状態等)は適宜之を附記すべし
第六百四 乙の目的を達せむが為には左の諸件に注意して記載すべし
- 一 武器、弾薬、器具、材料、被服、装具等に関すること
- 二 編成及諸規則の作戦に及ぼしたる影響
- 三 補充、給養及衛生に関すること
- 四 教育及軍紀に関すること
- 五 非常の時機に際して為したる非常の処置例えば敵地に在りて住民に多額の罰金を課したる等
作成部隊
陣中日誌は、大本営各部、高等司令部(編成上各部に区分するものは其各部毎に)、兵站監部各部、兵站司令部及同支部、連隊、大隊、中隊(要塞に在りては独立して堡塁、砲塞を守備する小隊、又は長時間独立して行動せし小隊を含む)、歩兵砲隊、騎兵機関銃隊、歩兵砲(第)隊段列、衛生隊、病院、その他独立部隊及諸蔽などでの作成が命じられた[2]。また、「師団及び独立作戦する部隊」指揮官[3]、留守部隊は留守日誌を作ることとされた [4]。
日誌は各部隊動員令受領の日より記載が命じられた[5]。
脚注
- ^ 陣中要務令第13篇第六百二
- ^ 陣中要務令第13篇第六百五
- ^ 「師団及び独立作戦する部隊の大行李を纏めて行動せしめたるときに於いては其の指揮官に於いて其の期間に限り記述するものとす」
- ^ 「留守部隊に在りては右区分に従い留守日誌を作り主として乙に掲げる目的を達する如く記載すべし」
- ^ 陣中要務令第13篇第六百六「陣中日誌及び留守日誌は各部隊動員令受領の日より記載すべきものとす」「特設部隊に在りては先ず編成委員之が記載を始め主任者に移すものとす」
関連項目
陣中日誌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 20:12 UTC 版)
陸軍士官・陸上自衛隊・航空自衛隊元幹部のOB会偕行社が編纂した「南京戦史」・「南京戦史資料集I」「南京戦史資料集II」には多数の軍人の陣中日誌、日記、部隊の戦闘詳報が掲載されており、松井石根大将、飯沼守上海派遣軍参謀長(資料集I)、上村利道上海派遣軍参謀副長(資料集II)、山田栴二(歩兵第104旅団長・山田支隊支隊長)の日記等が収録されている。個別の出版では、下士官だった村田 和志郎の「日中戦争日記」(1986年出版)などが出されている。 第16師団長中島今朝吾の陣中日誌 1937年12月13日「本日正午高山剣士来着す 捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ 時 恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり」「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千、5千、1万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ 13日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ 斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ 後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7,8千人アリ尚続々投降シ来ル 此7.8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ100,200二分割シタル後適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。 この記述の「大体捕虜ハセヌ方針」を軍による捕虜殺害命令とする見方がある(藤原彰、笠原十九司、秦郁彦、吉田裕)。吉田裕は裏付けとして第38連隊児玉義雄証言、第16師団歩兵33連隊、第114師団第66連隊第一大隊戦闘詳報を挙げている。 一方、中島日記の記述を裏付ける命令書のような物証は発見されていない。東中野修道はこれを捕虜殺害の意味でないと主張する。当初から殺害する方針であったとすれば明記するはずであり、捕虜にせずに釈放するのだと考え、上海派遣軍参謀・大西一大尉「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです」という証言も挙げる。日本軍は後年のことになるが捕虜収容所を作り捕虜を収容し汪兆銘政権下の兵士となった者もいて、戦闘中の捕虜を解放した事例もあるとする。ただし、大西の発言は何の根拠もない彼個人の意見で、笠原十九司は、大西自身の証言からも大西は当時中島と話をしたわけでもなく、そもそも見かけたことがあるだけで中島とろくに会ったこともないし知っていたわけでもないとする。また、大西は南京事件についても単にシロだ、シロだと言うだけでろくに反論にならないという批判がある。東中野のこの主張はあまりにも無理があり、また、日記に「百、二百に分割した後に適当の箇所に誘導して処理する」とあることから釈放ではなく殺害であることは明らかだとの批判がある。 小原立一 (第16師団経理部予備主計少尉 )日記1937年12月14日「最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す・・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ」(秦郁彦が引用。 井家又一 (歩兵第七連隊第二中隊上等兵) 日記12月22日「百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林寺付近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。(中略)一軒家にぶちこめた。家屋から五人連をつれてきては突くのである。(中略)戦にやぶれた兵の行先は日本軍人に殺されたのだ。針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。 (中略)水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。 いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家具を焼く。火達磨となって二・三人がとんで出て来たのを突殺す」。 児玉義雄 (第16師団第38連隊の副官) 師団命令として中国兵の降伏を拒否し、殺害するよう伝えられた。 佐々木到一(第16師団の歩兵第30旅団長) 掃討戦記『佐々木到一少将私記』を残す。「城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛。下関において処分せらるもの数千に達す。」 遠藤高明(第13師団山田支隊第65連隊第8中隊少尉) 黒須忠信 (第13師団山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊上等兵) 牧原信夫(歩兵第26連隊・上等兵) 笠原十九司『南京事件』で引用 堀越文雄 (第13連隊山田支隊歩兵第65連隊) 中国人女、子供を銃殺。笠原十九司『南京事件』で引用 大寺隆 (第13連隊山田支隊歩兵第65連隊第7中隊) 12月18日、昨夜までの揚子江捕虜殺害は2万。笠原十九司『南京事件』で引用 増田六助 (第16師団歩兵20連隊伍長)難民区掃討。『南京戦史資料集』偕行社。笠原十九司『南京事件』で引用
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