アメリカ軍の戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:39 UTC 版)
アメリカ軍のグアム奪還作戦はマリアナ攻略作戦の一環として計画され、「スチーブドア作戦」と名付けられていた。当初の計画では、レイモンド・スプルーアンス提督が率いる、マリアナ諸島攻略部隊の合計600隻の艦船と127,000名の上陸部隊は、6月15日に第2海兵師団 と第4海兵師団と陸軍第27歩兵師団でサイパン島に上陸、そしてサイパンを攻略後にテニアン島に転戦する。サイパンと並行して第1海兵師団と第2海兵師団 の一部が、6月18日にグアム島に上陸する計画であった。 その後グアム攻略はロイ・ガイガー少将率いる第3海兵水陸両用部隊の担当となり、第3海兵師団がアデラップ岬とアグトア付近海岸に、また第1臨時海兵旅団と第3軍団砲兵部隊がアガット町とパンギ岬に、同時に二か所からの上陸作戦を行う計画を立てた。 長らく軍が駐屯していた割には、グアム島の地形について詳細な資料がアメリカ国内になく、アメリカ軍はグアムに過去駐在していた軍人やアメリカ勢力下にいた島民(チャモロ人)から情報収集を行っている。また昭和19年4月末からは飛行機や潜水艦による写真偵察を強化し、正確な地図や石膏やゴム製の模型図まで作製し、作戦活用している。 第3海兵水陸両用部隊はこれらの情報に基づき、ガダルカナル島のエスペランス岬にて徹底した上陸訓練を行なった。その訓練では、各種舟艇による海岸への接近や、歩兵・戦車の共同作戦などの様々な研究もなされ、アメリカ軍は準備万端でグアム上陸作戦に臨むこととなった。 前述の通り、当初の予定ではサイパン島上陸の3日の6月18日がグアム島上陸予定日であったが、第一機動艦隊の出撃を知ったレイモンド・スプルーアンス提督が日本艦隊迎撃の為に上陸予定を一旦延期した。マリアナ沖海戦により日本艦隊の脅威は無くなったが、次はサイパン島の戦況により、予備師団であった陸軍第27歩兵師団をサイパンに投入せざるを得なくなり、代わりに第3海兵水陸両用部隊を予備兵力に回したことにより、再度上陸予定が延期になった。 サイパンの戦況が落ち着いた6月29日に、アメリカ軍の南方攻撃部隊司令部の指揮官や幕僚がサイパンに集まり、グアムの状況について検証した結果、偵察写真や捕虜尋問等により、グアムがサイパンよりは強固に防御されているものと判断した。さらにサイパンでのアメリカ軍の死傷者が最終的に14,111名となったが、これは上陸した全兵力の20%にも上り、タラワの戦いに匹敵する死傷率となってしまった。日本軍の頑強な抵抗とその持続力を認識させられた司令部は、兵力増強が不可欠という結論に達し、そこで海兵隊に加えて、マリアナ攻略作戦の予備兵力としてハワイに待機していた陸軍第77歩兵師団を、グアム戦の予備戦力として補強し、その内一個連隊戦闘団を、海兵隊と共に上陸作戦に参加させることとし、上陸戦力の増強を図っている。その上でスプルーアンス提督は7月21日を上陸日とすることに決定した。
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