組織的戦闘の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
アメリカ海軍と海兵隊は硫黄島のあまりの損害の多さに「損害見積は未だ入手できない」と称して死傷者数の公表をせず、戦果の公表だけを行っていたが、第1回目の損害公表となった「2月21日1800現在、硫黄島での損害推定は戦死644、負傷4108、行方不明560」により、アメリカ海軍と海兵隊に対して猛烈な批判が寄せられた。そのなかでハースト・コーポレーション社系列のサンフランシスコ・エグザミナー紙は「硫黄島でアメリカ軍が余りにも重大な損害を被りつつあり、アメリカ軍がこうした損害に耐えきれなくなるという情勢が生まれてくることを示す恐るべき証拠がある。タラワやサイパンでおこったことと同じであり、もしこの状態が続くなら、アメリカ軍は日本本土に到着する前に、消耗し尽くしてしまう危険もある」と今後のアメリカ軍の戦略を危惧する記事を報じたほどであった。 アメリカ国内で激しいバッシングにさらされたニミッツは、あまりにも早い時期での勝利宣言とアメリカ国旗掲揚式開催を命じた。ターナーやスミスといった司令官が列席するなかでニミッツの「これらの島々の日本帝国の政府のすべての権限は、ここに停止された。軍政長官を兼ねる小官が全ての権限を掌握し、指揮下にある軍司令官によって実施される」という宣言が代読されたが、まだ「クッシュマンズ・ポケット」や「ミート・グラインダー」などでは激戦が続いており、砲撃音などで式典が一時中断することもあった。司令官のスミスは感傷のあまり涙ぐみながら「ここが一番骨が折れたな」と副官に語り掛けていたが、列席していた関係者は砲撃音や銃声で式典が中断するたびに「この島を確保しているのなら、この銃声はどこから聞こえてるんだ?」と皮肉を言い合った。あまりにも早い勝利宣言を聞いた前線で戦っている海兵隊員は「(ニミッツ)提督は何の冗談を言ってるんだ?」と呆れたという。 3月15日には、アメリカ国内のバッシングを和らげようと、硫黄島にいたターナーとスミスは記者会見で「アメリカ軍の損害は日本軍の1/5程度である」とする過小な損害と過大な戦果公表を行ったが、正確な死傷者数を知りたいという世論に対して、3月16日にニミッツはやむなく「3月6日までに、戦死者4,189人、行方不明441人、負傷者15,308人」と公表した。しかし、この数字も実際に受けた損害よりは過小であった。さらにニミッツは特別の声明も出した。 硫黄島の戦いは、アメリカ海兵隊の歴史始まって以来、168年で最も激しい戦いであった。硫黄島の戦いに参加したアメリカ人の間で、類稀な勇気は共通の美徳だった。 その夜にアメリカ海兵隊員のなかで無礼講のお祭り騒ぎがあった。これはニミッツの勝利宣言を受けてのものではなく、兵士の誰かが「ナチスドイツが降伏したぞ」とデマを流したことによるもので、この騒ぎで数名の負傷者を出した。翌3月17日にこれまで硫黄島での陸上戦を指揮してきたスミスが硫黄島を離れ、真珠湾に戻った。スミスは真珠湾で記者たちに「あの島を進む海兵隊を見ていると、ゲティスバーグの戦いのピケット・チャージの激戦を思わせるものがあった」「再び言うが、硫黄島攻略戦こそ、海兵隊がこれまで経験したいちばんの激戦だった。今次大戦後、もし海兵隊が必要かどうかという論争がおきるとしたら、この硫黄島の戦いが海兵隊はなくてはならないものと証明するだろう」と述べている。しかし、スミスが硫黄島を離れたのちも硫黄島での戦いは延々と続くこととなった。 一方で、日本軍守備隊の状況は末期的となっていた。地下水が少なく、雨水をためて飲用水を確保しなければならなかった硫黄島において、ドラム缶で備蓄していた飲用水は次第に少なくなり、1日1人あたり茶碗1杯で耐え忍んできたが、それも払底し将兵は渇きに苦しんだ。日本兵は友軍の遺体を見ると、必ず持っている水筒をさぐったが水が入っている水筒はなかった。硫黄島の数少ない飲用可能な井戸は2月26日にアメリカ軍に奪われていたが、日本軍はやむなく「水汲み決死隊」を編成し、夜中にその井戸に向かって選抜隊を潜行させたが、途中で海兵隊員に発見されて激戦のうえ全滅するということもあった。 3月14日、小笠原兵団基幹部隊として栗林を支えてきた歩兵第145連隊長・池田が軍旗を奉焼し、16日16時過ぎ、栗林は大本営へ訣別(けつべつ)電報を送った。 「戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テス 陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊カ悦ビトスル所ナリ 然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方リ 熟々皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲ニ最後ノ関頭ニ立チ重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ 尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵如何ナル敵ノ攻撃ヲモ断固破摧シ得ルヲ確信スルモ何卒宜シク申上グ 終リニ左記駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ」国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき 仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ 醜草の島に蔓る其の時の 皇国の行手一途に思ふ 南の孤島から発信されたこの訣別電報は、本土最北端である海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別通信所により傍受され、通信員が涙ながらに大本営へ転送したとされる。 大本営はこの決別電報で硫黄島守備隊は玉砕したと判断し、父島にあった第109師団父島派遣司令部と混成第1旅団を第109師団に再編成し、旅団長であった立花芳夫少将を中将に昇進させて師団長とした。しかし、3月23日に硫黄島から断続的に電文が発されているのを父島の通信隊が傍受した。その電文には21日以降の戦闘状況が克明に記されていたが、最後の通信は23日の午後5時で、「ホシサクラ(陸海軍のこと)300ヒガシダイチニアリテリュウダンヲオクレ」という平文電報がまず流れてきたので、通信兵が返信しようとすると、「マテ、マテ」と硫黄島から遮られて、その後に続々と電文が送られてきたという。その電文の多くが栗林による部隊や個人の殊勲上申であり、栗林は戦闘開始以降、部下の殊勲を念入りに調べてこまめに上申してきたが、最後の瞬間まで部下のはたらきに報いようとしていたのだと、電文を受信した通信兵たちは感じ、電文に記された顔見知りの守備隊兵士を思い出して涙した。しばらくすると通信は途絶えて、その後は父島からいくら呼びかけても返信はなかった。
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