ミート・グラインダー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
「硫黄島の戦い」の記事における「ミート・グラインダー」の解説
硫黄島中央を進撃していた第3海兵師団長のアースキンは自分の担当地区が他の2個師団の担当地区と比較すると平坦地が多いので、軍団直属のM1 155mm榴弾砲の火力を集中して一気に中央突破を試みる作戦を第5水陸両用軍団長のシュミットに申し出た。アースキンは第一次世界大戦にも従軍し数々の戦功を挙げた猛将として信頼も厚く、シュミットはアースキンの作戦を承認した。アースキンはシュミットの信頼通り元山の攻防戦では快進撃を見せたが、それに納得することなく、先頭を進んでいた第9海兵連隊の連隊長を呼びつけると日本軍のお株を奪うような夜襲での進撃を命じ、「夜襲で日本軍の戦線を突破し、前進をはばんでいるトーチカを爆破してこい」との指示をしたが、連隊長は「分かりました。行ってまいります。しかしどのトーチカのことを言ってるんですか?」と言い返している。師団が把握して地図にマーキングできているトーチカは数個に過ぎなかったが、前線の第9海兵連隊はまだ発見されていない日本軍のトーチカが無数にあることを思い知らされており、簡単には進撃できないことが分かっていたのでアースキンに反論したのであるが、結局その日の夜襲は取りやめとなった。 第4海兵師団が進む東側は、遮蔽物の少ないむき出しの台地であり、かつては樫の林があったが激しい砲爆撃で焼失していた。この岩場一帯では千田少将の率いる混成第2旅団が海兵隊を待ち構えていた。混成第2旅団は老兵や未熟な兵が多い寄せ集め部隊であったのだが、日本陸軍屈指の歩兵戦闘の専門家である千田は部下将兵に対して「団結の強化」「牛刀主義(細事にも全力をつぎこむ)」「創意工夫」「明るく元気」という単純明快なスローガンを掲げ、徹底した猛訓練で強兵に育て上げていた。混成第2旅団が守る二段岩陣地(アメリカ軍呼称382高地)、玉名山(アメリカ軍呼称ターキー・ノブ)、海軍司令部跡台地東側陣地(アメリカ軍呼称ミナミ・ビレッジ)、海軍司令部跡台地西側陣地(アメリカ軍呼称円形劇場)は強固に要塞化され、また地下陣地に据えられた各種火砲は、コンクリートで固められた観測所からの的確な観測によって正確な砲撃を浴びせられるように構築されていた。 上陸6日目の2月25日には第4海兵師団がこの防衛線に接触したが、この後2週間以上に渡って第4海兵師団は釘付けとなって大損害を被ることとなった。地形が複雑であり戦車の支援を十分に受けることができず、海兵隊員が火炎放射器や爆薬やバズーカでひとつひとつ日本軍の陣地を攻略していかねばならなかったが、日本軍は巧みに隠されたトーチカや地下陣地から射撃を加えて、26日には512人、27日は硫黄島上陸後で最悪となる792人の死傷者を出したが殆ど前進することはできなかった。海兵隊員はあまりの流血に、千田が守る南地区主陣地第二線陣地群を「ミート・グラインダー(肉挽き器)」と呼び、陣地を構成するそれぞれの尾根や谷に「死の谷」とか「血まみれの尾根」とか禍々しい名前をつけて恐れた。ここでも噴進砲が絶大な威力を発揮、あまりの威力に海兵隊員は重砲での砲撃と考えて必死に捜索したが、簡単に分解して運べる噴進砲の発射装置は容易に発見されることなく、海兵隊員は見えない「幻の超重砲」に震え上がることとなった。 アメリカ軍は装甲ブルドーザーを投入し、戦車が通行できる通路を確保し、火炎放射型の「ジッポー戦車」も投入して日本軍陣地の撃破を行った。3月2日には主要陣地の1つであった382高地を610人という多大な犠牲を被りながらも攻略した。その後も激戦は続きアメリカ軍は夥しい犠牲を出し、第26海兵連隊は戦力が40%まで落ち込むほどに消耗しながらも、日本軍の陣地攻略を進めていき、3月11日には「ミート・グラインダー」も残るは「ターキー・ノブ」だけとなっていた。アメリカ軍は千田に投降を促したが、千田が応じることはなかったので総攻撃を開始した。千田の最後は諸説あり、栗林から玉砕戦法を禁じられていた千田は、これまではアメリカ軍に出血を強いたが、3月7日には武器弾薬はおろか水まで枯渇したので、もはや組織的な抵抗は不可能となっていた。千田は生き残っていた各部隊長を集めると、翌8日を期しての総攻撃を命じて「皆さん、長いことご苦労をかけました。靖国神社で会いましょう」と告げてコップ1杯の水で乾杯した。8日の18時に千田は日章旗の鉢巻を巻き、右手に手榴弾、左手に軍刀を持つと、生存していた海軍警備隊司令井上左馬二海軍大佐以下800人の将兵を率いて摺鉢山方面に向けて突撃を開始した。アメリカ軍は十字砲火を浴びせて日本軍は次々と倒されたが、それでもアメリカ軍の前線陣地にたどり着いて各所で激しい白兵戦が展開された。激しい戦闘は夜を徹して繰り広げられ、この突撃で日本軍は指揮官の千田以下700人が戦死したが、アメリカ軍の死傷者は347人であった。 他にも、3月8日に突撃を率いたのは海軍の井上で、千田は最後まで栗林の命令を守って突撃することはせず、3月17日に栗林と合流するために生存者400人と陣地を脱出したが、兵団司令部近隣でアメリカ軍に捕捉され進退窮まった千田は参謀長らと自決したという証言もある。組織的な抵抗力を失った混成第2旅団ではあったが、玉名山内の洞窟陣地に籠ってゲリラ戦を展開した。千田の生死を把握していなかった第4海兵師団は、3月16日に師団長のケーツが2時間の攻撃停止を命じると、自らが拡声器を持って千田と守備隊将兵の健闘を称えて、「硫黄島は既に陥落しており、これ以上抵抗しても何も得るところがない」と投降を勧告したが、拡声器用の発電機が故障で動かなかったので、守備隊に聞こえたかはわからなかった。その後も4日間戦闘は続いたが、海兵隊は洞窟の入り口を片っ端から封鎖していったため、日本軍の抵抗は次第に弱体化していった。第4海兵師団は「ミート・グラインダー」で4,075人が死傷するという甚大な損害を被った。
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