硫黄島の猛将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 18:50 UTC 版)
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、栗林忠道による前任者・大須賀応少将の解任に伴い、栗林の求めに応じた大本営により12月に小笠原兵団第109師団の中核・混成第2旅団長に補任、硫黄島に赴く。「硫黄島に死にに来た」と語っていたように、「いさぎよく散ることこそ武士道の道」と言った人物であった。民間人から老年者までの寄せ集め部隊である混成第2旅団をもって複郭・洞窟陣地を構築した。硫黄島では戦車へ突進することを主任務とする「突撃中隊」を生み出し、その育成にあたった。混成第二旅団の南地区部隊は、米軍の硫黄島上陸部隊の矢面にたち、その激戦は米兵に血の河を流れさせる死闘を演じた。千田の籠もる玉名山など元山飛行場側正面周辺にては米軍の猛攻に耐え、3月2日から8日間で主に米海兵隊第4海兵師団(師団長:クリフトン・ケーツ海兵少将)に2880人余りの死者を与え、米海兵隊も“肉挽き器(ミートグラインダー)”と呼ばれた玉名山迂回にて作戦を続行せざるを得なかった。米海兵隊の大海の中で玉名山だけが残された。
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