硫黄島・沖縄戦
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「エンタープライズ (CV-6)」の記事における「硫黄島・沖縄戦」の解説
12月24日、エンタープライズは夜間戦闘機の運行訓練を開始した。一方で小規模の改装(着艦誘導灯の設置など)を受け、エンタープライズは夜間空母へと生まれ変わった。この時期、エンタープライズは第90夜間航空群を搭載した。夜間航空群のため急降下爆撃機は全て下ろし、レーダーを装備したヘルキャット戦闘機とアベンジャー雷撃機を55機程度搭載していた(ヘルキャット34、アベンジャー21)。この第90夜間航空群は、かつて夜間攻撃を成功させた第10航空群の主力を引き継いでいた(12名以上、エンタープライズの乗組員の顔馴染みがいた)。そもそも夜間空母の必要性を提唱していたのがかつてトラックでの夜間攻撃を画策した第10雷撃隊隊長のビル・マーティン中佐で、彼は夜間空母に改装されたエンタープライズに第90夜間航空群指揮官として帰って来た。夜間空母の任務は夜間防空、夜間爆撃、夜間索敵等の夜間作戦が主要で、敵地攻撃に際しては、敵地まで他の通常空母の任務群と行動を共にして、敵地が近くなると先頭に立って夜間に敵基地の機能を破壊する、というものだった。それ以外で、昼間にも防空を行わなければならないこともあった。そのため、乗組員は暇さえあれば昼寝が推奨された。また、夜間に比べれば昼間は暇なため、情報将校によるスペイン語の講座等も開かれパイロット達に人気を博した。 この当時の夜間航空戦闘は母艦からおよその敵の位置に誘導され、その後自機のレーダーで敵を発見、攻撃を仕掛ける時には夜間適合視認装置の補助をもって直接、目視で確認する必要があった。そのため敵の曳光弾や自機の機銃やロケット弾の発射で目が眩む事が多かった。中でも厄介なのは地上攻撃を行う際に敵から照射されるレーダー連動のサーチライトだった。夜間空母のパイロット達は、チャフや電波妨害装置を用いてこれらに対応した。 1945年1月、エンタープライズは第38任務部隊の第5群に加わり既に夜間空母として活動していた軽空母インディペンデンスと合流した。この第38任務部隊への参加についてはエンタープライズに、指揮官のハルゼー提督から個人的に歓迎の電文が送られた。ルソン島近海に進出し、南シナ海における日本本土と蘭印の海上補給ラインを遮断、掌握に協力してウルシーに帰還した。2月10日、第58任務部隊に戻った。そのときにはインディペンデンスが修理のために後退し、夜間空母へと改装されたサラトガに入れ替わっていた。2月16日から東京空襲や硫黄島の攻略を目的としたデタッチメント作戦に参加(硫黄島の戦い)した。東京攻撃に際しては夜間雷撃機が多くのエレクトロニック兵器を搭載した電子戦機として、敵のレーダー基地の位置の特定などでも活躍した(F6F1機の支援を受けたTBF1機が東京上空で4時間飛行して電波を観測、23個のレーダーを発見し、他にパルス幅、周波数、パルス反復周波数のデータを収集した)。硫黄島攻略の際は、日夜問わず第58任務部隊の防空を担当した。21日にサラトガが神風の突入で大破、戦線を離脱するとエンタープライズは唯一の作戦可能な夜間空母になり、単艦で数多くの任務をこなす必要が出てきた。23日の午後4時から、1週間以上にも及ぶ連続した作戦を開始した。エンタープライズでは乗組員にローテーションを組ませて艦を不眠不休に保って艦載機を運用、174時間に渡って硫黄島に上陸した海兵隊を援護した。その間、エンタープライズの上空哨戒機が2機以下になることはなかった。 3月15日、同任務部隊はウルシーを出撃して沖縄攻略を目的としたアイスバーグ作戦に先立って、主に九州に展開する日本陸海軍の飛行場と日本本土から海上輸送による沖縄救援を防止するため日本海に展開する輸送船を攻撃した。その間、エンタープライズも防空に専念していたが3月18日に日本海軍機一機(艦上爆撃機・彗星三三型と推測される。)の奇襲爆撃により500キロ爆弾の直撃を受け、不発弾(或いは投下から着弾までの時間が短すぎたために信管が不作動であった。)だったものの損傷を受けた。また、爆弾から撒き散らされた白リンによって3名が焼死した。他に味方5インチ砲弾が右舷後部キャットウォークに命中し、被害を受けている。19日に翌日の呉攻撃の為の夜間偵察を行い、偶然にも戦艦大和に遭遇した機もあった。3月20日には至近弾2発のほか、対空戦闘中に直援艦の誤射を受けた40ミリ機銃が爆発、破片がエンタープライズの甲板に整列していた艦載機を直撃した。その後次々と艦載機に引火、機銃弾の誘爆が起こり大火災が発生した。炎がアイランドを舐め、さらに格納庫甲板にまで迫ったが消火ホースで水のカーテンを作ったり、過熱した爆弾を消火泡で満たしたエレベーターで飛行甲板にあげるなど的確にダメージコントロールが行われ、1時間以内に火災は鎮火された(CICや通常の無線チャンネルが機能しなくなっていたが、その間にも味方艦からのVHF無線で敵機の位置情報を得て対空戦闘を続けていた)。しかしながら火災により司令塔たるアイランドの設備を喪失したため、大破したフランクリン等とともにウルシーに帰還して6日間修理を行った。 4月5日、エンタープライズは沖縄攻略を支援するためウルシーを出撃した(沖縄戦)。エンタープライズは4月11日に特攻機の攻撃を受け、左舷後部に突入しようとした特攻機を寸前で撃墜したものの破片がエンタープライズの砲座を襲い、離れた爆弾がバルジの直下で爆発した。バルジにより浸水は免れたが、対空レーダーが折れて甲板に落下するほどの衝撃が艦を襲い、船体各所で損害が発生した。また、至近特攻機によりカタパルト上で発艦準備中のだった無人のヘルキャットが炎上したがそのままカタパルトで射出し事なきを得た。エンタープライズは大きな損害を受けたが、そのまま任務を2日間継続、14日にウルシーに引き返した。喫水線下の損害であったが、工作艦ジェイソンの支援もあり16日で修理を終わらせた。修理後は沖縄沖で防空と夜間作戦に従事した。その後、5月11日に第58任務部隊旗艦の空母バンカーヒルが神風特攻の突入を受け大破、戦場を離脱しエンタープライズが第58任務部隊の旗艦を引き継いだ。12日には、かねてより計画されていた夜間の敵飛行場に対する効果的な(と思われる)攻撃戦術が試された。その戦術は日暮に小型焼夷弾、ロケット弾、機銃弾を満載した夜間爆撃隊を発艦、散開させ、暗くなると単機あるいは2機のペアで各地の飛行場を爆撃(この日、エンタープライズの16機のアベンジャー雷撃機は九州の西は佐世保以南、東は佐伯以南の全ての飛行場、加えて各地、特に長崎と佐世保の海上交通、港を攻撃した)。敵飛行場施設に損害を与え、一晩中、上空を飛行し修復作業を妨害する。遅れて夜間戦闘機隊は夜明け前に敵飛行場に到達して爆撃隊と交代、薄明のなかを離陸しようとする敵機を攻撃して離陸を妨害(ジッパー任務)、その後通常空母から発艦した攻撃隊に攻撃を引き継ぐ、というものだった。この攻撃戦術の効果は大きく、翌日に任務部隊に近づけた敵機は一機もいなかった。 5月14日、26機の日本機がTF-58目掛けて飛来してきた。6機が対空砲火で撃墜、19機が上空哨戒機によって撃墜された。だが、富安俊助中尉 搭乗の1機のみは集中砲火を避けて雲に隠れ、時々雲から顔を出してエンタープライズの位置を確認しつつ生き残っていた。そして午前6時56分、この1機がエンタープライズに向かって突撃してきた。エンタープライズは富安機を20分前からレーダーで認識していたが、富安機が雲に隠れるなどしたために効果的な反撃が出来ずにいた。エンタープライズが回頭し艦尾を向けたときに富安機は満を持して緩降下攻撃を実施、エンタープライズも右舷後方から降下してくる富安機に対して右舷回頭して集中砲火を行なったが、富安機は機体を横滑りさせるなどして回避、オーバーシュートする寸前に艦の真上で180度に左回転し、背面飛行の状態から急降下し、前部エレベーターの後部に突入した。前部エレベーターは爆発によって400フィート(≒120m)上空まで吹き上げられ、エンタープライズの左舷海面に落下した。エンタープライズは大破炎上し、破孔からの浸水によって前部は2.2メートル沈下し、深刻な損傷を負った。エンタープライズのダメージコントロール班は即座に行動し、17分で火災の延焼を食い止めて誘爆を阻止した。被弾から30分で火災は消火され、エンタープライズは対空戦闘を継続して更に2機を撃墜、速度を落とすことなく旗艦として任務部隊の配置を守り続けた。そのダメージコントロール能力の高さにミッチャー提督はエンタープライズのダメージコントロール班が「かつて見た中で最高の優秀さ」であったと賛辞を送っている。また、これだけの大爆発にもかかわらず当時第2エレベーターを使用中だったことと、爆弾が鋼材置き場で炸裂し、弾片が飛散しなかったという幸運から戦死者数は13名に留まった。だが前部エレベーターや飛行甲板などの損傷により発着艦能力は麻痺し翌日ミッチャー提督をランドルフに移し、旗艦から外れた。そして16日に任務部隊を離脱した。14日が、エンタープライズにとっての最期の戦闘となった。 富安中尉の遺体はエレベーターホールの下で発見され、アメリカ兵と同じように丁重に水葬された。彼は海軍関係者から「これまで日本海軍が3年かかってもできなかったことを、たった一人で一瞬の間にやってのけた。」と称賛の言葉を受けた。この時の機体の破片は後に、軍属の二級登録板金工だったノーマン・ザフトから富安中尉の家族に返還された。さらに、富安中尉の衣服の中にあった50銭札も2020年7月に家族に返還された。 修理のためにエンタープライズは戦列を離脱し、ウルシー、パールハーバーを経由して本国へと向かった。パールハーバー入港時には"VICTORY"の"V"と"ENTERPRISE"の"E"の文字を作ったアベンジャー雷撃機の編隊に歓迎された。6月7日、ピュージェット・サウンド海軍工廠に到着し、修理とオーバーホール中(6月12日〜8月31日)に終戦を迎えた。
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