硫黄島、沖縄戦から終戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 03:23 UTC 版)
「天山 (航空機)」の記事における「硫黄島、沖縄戦から終戦まで」の解説
マリアナ諸島攻防戦、台湾沖航空戦、フィリピン攻防戦と立て続けに生起する激戦により、母艦航空隊は壊滅、基地航空隊も大きく消耗したため、少数機での夜間または薄暮、黎明時の雷撃が陸攻・艦攻の主な対艦攻撃法となっていく。九州沖航空戦や沖縄戦(菊水作戦)では、鹿屋等の九州南部の基地から沖縄周辺に展開する米機動艦隊や輸送船団などに対して新装備の機上電探を活用した夜間雷撃を行っているが、F6F-5Nナイトヘルキャットの迎撃や対空砲火に阻まれ、大きな戦果を挙げることは出来なかった。しかし、終戦の3日前の昭和20年(1945年)8月12日の夜半、九州・鹿児島県の串良基地から出撃した第五航空艦隊麾下の第九三一航空隊攻撃第二五一飛行隊所属の天山隊4機が沖縄の中城湾に停泊していたペンシルヴェニアを夜間雷撃で大破させている。 また、フィリピン攻防戦や硫黄島の戦い、沖縄戦(菊水作戦)では、零戦や彗星よりは少ないものの、特攻にも投入されている。昭和20年(1945年)2月21日に第三航空艦隊麾下の第六〇一航空隊所属の天山8機(雷装4機、爆装4機。途中で2機脱落)が第二御楯特別攻撃隊(他に零戦9機(直援)、彗星12機)として香取基地を出撃、八丈島を経由して硫黄島沖の米艦隊を攻撃、天山隊の爆撃と体当たり攻撃によりサラトガと輸送船を大破させている(この他に彗星隊の体当たり攻撃により、ビスマーク・シーを撃沈している)。 昭和19年(1944年)夏から海軍は生産機種の絞り込みを計画し始め、昭和20年(1945年)1月に彩雲を単発攻撃機及び夜間戦闘機兼用機とし、天山を生産中止とすることに決定した。この決定に従って彩雲の攻撃機及び夜間戦闘機改修工事が行われているが、B-29による爆撃等のため生産を切り替えることは出来ず、終戦まで天山の生産が継続されている。終戦時の残存数は187機。
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