九州沖航空戦
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九州沖航空戦 | |
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![]() 大破した米空母「フランクリン」 |
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戦争:太平洋戦争/大東亜戦争 | |
年月日:1945年3月18日 - 3月21日 | |
場所:九州・四国沖の海域 | |
結果:アメリカ軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
宇垣纏 | マーク・ミッチャー レイモンド・スプルーアンス |
戦力 | |
航空機400(内特攻機193) | 空母12 艦上機1,400 |
損害 | |
戦死282 航空機258以上 |
空母2大破 航空機89 戦死828以上 |
九州沖航空戦(きゅうしゅうおきこうくうせん)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年3月18日から同月21日の間に日本近海の洋上で起こった日本軍航空部隊とアメリカ軍の各海軍部隊による戦闘である。
背景
当時日本の大本営は、3月17日に硫黄島守備隊指揮官の栗林忠道中将から訣別電を受けており、硫黄島の戦いにおける日本軍の組織的な抵抗は終わろうとしていた。しかもこの頃、日本本土へのアメリカ軍機による空襲が活発化し、1945年2月にはアメリカ海軍空母部隊が関東地方周辺へ航空攻撃作戦を行った。
大本営は4月初頭にもアメリカ軍が沖縄へ上陸してくることを予見。九州へアメリカの空母部隊がいつ来襲してもおかしくないという危機的な状況であった。
アメリカ海軍は、4月1日の沖縄上陸に向け、日本軍の反撃戦力を事前に殺ぐため日本本土を機動部隊で攻撃することにした。1945年3月初め、アメリカ海軍空母部隊はカタ604船団を全滅させた。
第58任務部隊は一旦ウルシー泊地へ帰還したが、3月11日に九州の鹿屋基地から発進した梓特別攻撃隊の銀河がウルシー泊地に突入し、空母「ランドルフ」を大破させた。
戦闘経過
3月18日、空母12隻を基幹とするマーク・ミッチャー中将率いるアメリカ第58任務部隊艦上機約1,400機が、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将による指揮のもと日本近海に現れ、九州、四国、和歌山などの各地域を襲った。これに対して日本軍は、宇垣纏海軍中将率いる第五航空艦隊(指揮下の陸軍飛行戦隊2個に属する四式重爆撃機「飛龍」を含む)が反撃を開始した。神風特別攻撃隊を含めた日本軍機の攻撃で空母「イントレピッド」、「ヨークタウン」、「エンタープライズ」が小破した。しかし、この日、日本軍は特攻機69機を含む攻撃部隊全193機のうち、約8割である161機を失い、このほか50機が地上で損傷を受けた。さらにアメリカ軍機を迎撃した零式艦上戦闘機も47機の損害を出した。アメリカ軍機の損害は29機撃墜され、2機が損傷したにとどまった。
翌3月19日には、米機動部隊の一部は高知県室戸岬のおよそ80キロ沖にまで接近。艦上機部隊は主に瀬戸内海を空襲し、呉の軍港に停泊中の日本の水上艦艇の一部を攻撃。軽巡洋艦大淀が中破、空母天城、龍鳳及び戦艦榛名、日向、巡洋艦利根が小破するなどの被害が出た。
これに対し日本軍は、特攻隊を交えた出動可能な全航空兵力をもって激しく反撃。室戸岬に最も近づいていた空母「フランクリン」と「ワスプ」を大破させた。「フランクリン」では戦死者が832名にも及んだ。「フランクリン」への攻撃は、第762海軍航空隊の攻撃第406飛行隊に所属の銀河1機の急降下爆撃によるものである。「フランクリン」は懸命の応急処置により辛うじて沈没だけは免れたが、甚大な被害状況のため米本土に帰還し、終戦まで戦線を離脱した。他の空母1隻も、しばらく戦線を離脱した。
また、同日には、呉軍港を空襲した米艦上機群の一部を、松山海軍航空基地に展開していた第三四三海軍航空隊(通称:「剣」部隊。司令:源田実海軍大佐)指揮下の局地戦闘機「紫電・紫電改」約60機(3個飛行隊の稼働機全機)が松山周辺上空で迎撃し、大規模な空中戦となった。日本側は、F6Fヘルキャット戦闘機など50機あまりを撃墜したと報じ、日本軍の損失は被撃墜・未帰還16機(偵察飛行隊所属の艦上偵察機『彩雲』のうちの1機が高知県津野町上空にて敵機に体当たり自爆したのを含む)の「大勝利」と判断した。これは日本海軍航空隊の最後の大戦果として知られているが、アメリカ軍の記録によると未帰還機・修理不能機数は日本側とほぼ同数にとどまり、規模の大きな空戦にありがちな戦果の誤認があったと見られる。
3月20日、アメリカ軍は沖縄戦に備えるべく空母の補給を行いつつ南西に進み、日本の反撃に耐えた。翌日の3月21日、米機動部隊は都井岬沖の洋上に移動。ここで日本軍は初の桜花の実戦投入を行った。しかし、桜花15機を搭載した第721海軍航空隊所属第1神風桜花特別攻撃隊神雷部隊の一式陸上攻撃機18機全機が米艦上戦闘機群に捕捉されて撃墜された。この日の戦闘では、日本軍の戦死者160名、神雷部隊護衛の零戦10機前後未帰還、他22機の損害を出した。神雷部隊指揮官の野中五郎少佐は、出撃の直前に玉砕戦になることを予期してか「これは湊川だよ」と呟いていた。
結果
戦闘の後、日本の第五航空艦隊が報告した総合撃沈戦果によると、日本軍の戦果は空母5隻・戦艦2隻・重巡洋艦1隻・軽巡洋艦2隻・不詳1隻とされた。大本営海軍部は、航空戦が開始された3月18日から連日にわたって大本営発表を行い、3月23日には総合戦果を発表した。それによると、撃沈が空母5隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、不詳1隻で、撃墜が約180機となっており、日本軍側の損害は約150機とされている。実際には撃沈されたアメリカ軍主力艦艇はないなどこの発表は過大であるが、損傷を与えた艦艇数はほぼ正しく算定されている。一方、日本側の基地航空部隊は主力の第五航空艦隊が戦力の多くを失った。
日本軍は大打撃を受けたアメリカ艦隊が一時的にウルシー環礁へ帰投すると判断したが、実際には作戦を継続するだけの戦力が残っていた。アメリカ機動部隊は3月23日から南西諸島各地を攻撃し、沖縄への増援部隊を乗せたカナ304船団を全滅させるなど日本側に甚大な損害をもたらした。主力の第五航空艦隊が壊滅状態の日本軍は、即座に有効な反撃を行うことができなかった。 その後アメリカ機動部隊はイギリス太平洋艦隊の空母四隻(「イラストリアス」、「ヴィクトリアス」、「インドミタブル」、「インディファティガブル」)からなる機動部隊[1]と合流し、不足分の戦力を補充して沖縄戦に臨んだ。
脚注
参考文献
関連項目
九州沖航空戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 23:39 UTC 版)
1945年3月17日、米内光政海軍大臣の内令兵第八号をもって、桜花11型は正式に兵器として採用された。 詳細は「九州沖航空戦」を参照 桜花の初陣は、1945年3月九州沖航空戦であった。3月21日までに、通常攻撃と特攻により、第58任務部隊にかなりの損害を与えていると判断していた第5航空艦隊は、偵察機が発見した機動部隊に直掩機が見られなかった事より、損傷艦と誤認しトドメをさす好機到来と判断し、桜花部隊の出動を決めた。 しかし、3月18日には164機もあった五航艦の戦闘機も、3日に渡る九州沖航空戦の激戦で損失や損傷や故障が相次ぎ、桜花部隊の護衛の戦闘機は神雷部隊で32機、203空からの応援が23機で合計55機しか準備できなかった。それを知った神雷部隊司令岡村基春大佐は、援護の戦闘機が少ないことと目標が遠距離であることから中止を五航艦司令部に上申した。五航艦長官宇垣纏中将は「今の状況で使わなければ使うときがないよ」と言って断行した。当時得られた情報では計画通りの目標であったためである。 桜花出撃中止を宇垣中将に上申したのは岡村大佐ではなく、五航艦参謀長横井俊之大佐であったという証言もある。横井大佐は第1航空戦隊参謀や横浜海軍航空隊司令などを歴任した海軍航空の専門家で、マリアナ沖海戦では空母飛鷹艦長として参加し、アメリカ軍の防空能力を熟知していた。出撃の命令が出た後に、横井参謀長より護衛機が55機と聞かされた岡村司令が「参謀長、もっと戦闘機を出せませんか?」と食って掛かると、作戦の困難さを十分理解していた横井参謀長は「岡村大佐が55機で不安であれば、出撃を中止せざるを得ないと思われます。」と宇垣中将に出撃中止を進言したが、宇垣中将は岡村大佐の肩に手を置くと、諭すように一語一句ゆっくりとした口調で「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と言い、岡村大佐は「ハッ、やります」と決然と云って挙手をすると、サッと作戦室を後にしたという。 岡村大佐はこの出撃を待ち受けてる悲惨な状況に、危険性が高い任務には指揮官が先頭に立たねばならないと考え、野中五郎少佐に「今日は俺が行く」と言ったが、野中少佐は「お断りします。司令、そんなに私が信用できませんか!今日だけはいくら司令のお言葉でも、ごめんこうむります」と言葉を荒らげて拒否している。野中少佐の人柄より、一度言った事は絶対に撤回しないと岡村大佐は熟知していた為、そのまま出撃は野中少佐に譲ったが、後年に、この時を回顧する度に岡村大佐の目は涙でいっぱいだったという。 その後、野中少佐は飛行場の陸攻指揮所に行く途中、飛行長岩城邦広少佐に「ろくに戦闘機の無い状況ではまず成功しない。特攻なんてぶっ潰してくれ。これは湊川の戦いだよ」と言った。一方で、自ら「野中一家」と名乗り見事に統率してきた隊員らに対して「野郎ども集まれ」と呼集をかけると「ただいまより敵機動部隊撃滅に向かう(中略)ただいま以降、攻撃開始までは無線中止とする。どんな弱い電波も出しちゃならねえ。(中略)待ちに待った時がきたのである。日頃鍛えに鍛えた訓練の成果を示す時が来たのである。戦わんかな最後の血の一滴まで国に捧げる時が来たのである。諸士の健闘を望む。」と普段のべらんめえ口調を交えながら訓示を行って士気を鼓舞している。「野中一家」の通例であった勇壮な陣太鼓が打ち鳴らされる中で、部下の若い搭乗員らも野中少佐の意気に応えるように、出撃時には「行って来まアす」と大声を出し、遠足に出ていく子供の様に笑顔で手を大きく振りながら出撃して行ったと、当時報道班員として神雷部隊の取材をしていた作家山岡荘八が述べている。 1945年3月21日、神雷部隊は第一回神雷桜花特別攻撃隊(第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊)を編成、沖縄を攻撃中の米機動部隊に向けて出撃させた。出撃から30分も経たない内に、23機の護衛戦闘機が故障等により帰還、野中隊に随伴してる戦闘機は神雷部隊の306飛行隊と307飛行隊の直援戦闘機19機と、岡嶋清熊少佐率いる203空戦闘303飛行隊の間接援護機11機の合計30機になってしまった。護衛戦闘機の離脱が相次いでる事、また、その後の索敵で、先に発見していた目標の機動部隊は3群に分れていた内の1群であり、3群合計で7隻以上の空母を発見、当初の見込みよりも遥かに戦力が大きい事も判明し、一部の参謀から野中隊へ帰還命令を発するよう宇垣中将に進言があったが、宇垣中将は「神雷部隊は今や敵の目前に迫っている。すでに必殺必死を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」と言ってこれを聞き入れなかった。 宇垣中将が本日の出撃にここまで拘った理由として、陣中日記「戦藻録」の記述によれば「18日来特攻兵力の使用の機を窺い続け、(中略)今にして機会を逃せば再び梓隊の遠征を余儀なくされ、しかも成功の算大ならず、如かず今神雷攻撃を行うにはと決意し、待機中の桜花隊に決行を命ず。」としており、先の3月11日に銀河24機にてアメリカ海軍前線基地ウルシー環礁への特攻攻撃を行い、1機しか命中できなかった神風特攻梓隊を例に出し、ここでアメリカ軍機動部隊の後退を見逃せば、成功率が低いウルシーへの再度の攻撃を余儀なくされると判断したためとしている。野中隊は南下する途中で「敵発見」の打電をした偵察機彩雲と高度差200mですれ違ったが、彩雲の偵察員馬渡武男兵曹は野中隊に「しっかりやってくれ」と祈る気持ちで手を振っている。 しかし、野中隊は進撃中に敵艦隊にレーダーで捕捉されてしまい、正規空母ホーネットと軽空母ベローウッドの迎撃戦闘機が野中隊を邀撃した。ベローウッドの戦闘報告書によれば、スクランブル発進したベロー・ウッドの戦闘機隊VF30のF6Fヘルキャット8機が、陸攻隊が高度13,000フィート、直掩の戦闘機10数機が14,000フィート、更に高高度援護の戦闘機10数機が16,000フィートの三層で飛行しているのを発見し、18,000フィートまで高度を上げ、攻撃のため急降下した。最初に攻撃されたのは神雷部隊306飛行隊と307飛行隊の直援戦闘機隊であり、この時点では直掩の零戦の機数が多かったが、この日に306飛行隊として出撃していた野口剛によれば、アメリカ軍の戦闘機隊から後方上空より不意に攻撃を仕掛けられ、次々と直掩の零戦が撃墜されていったとの事で、不利な状況で機数の優位性を発揮できなかった。 VF30は援護の零戦を蹴散らすと陸攻隊に攻撃をしかけ、陸攻隊はチャフを散布しながら退避行動を取ったが、初弾を逃れた高高度援護の岡嶋ら戦闘303が、陸攻隊を追撃していたVF30の飛行隊長D.A.クラーク少佐と列機のJ.G.ミラー少尉の2機に太陽を背にして攻撃してきた。たちまちクラークら2機のF6Fと戦闘303の11機の零戦の空戦となったが、わずか2機のF6Fに203空は手間取って足止めされて、他のベローウッドのF6Fが陸攻隊を攻撃するのを止めることができなかった。戦闘303でこの日出撃した安部正治によれば、左前方から回り込んできたF6Fを迎撃するため、隊長の岡嶋らと増槽を切り離した直後に、左上方からほかのF6F隊に攻撃されたとのことで、レーダー管制により二段構えで待ち構えられていたと感じたという。その後は乱戦となり、岡嶋らとはぐれた安部は、一団で飛行していた戦闘303の零戦に次々と命中弾を与えていたF6Fに襲い掛かり、20㎜機銃と13㎜機銃を浴びせて、風防と左尾翼が吹っ飛んで墜落していくのを確認した。 VF30のクラーク少佐が機数では無勢ながら直掩の零戦を引き付け分断している間に、ホーネットの戦闘機隊VF17と戦闘爆撃機隊VBF17のF6F8機が到着した。最初の一撃で大きな損害を被っていた神雷部隊の直掩戦闘機隊は、常々「腕で神雷(桜花)を守れなかったら、身をもって護れ」と叩きこまれ、出撃時にも再度徹底されていたので、引き続き陸攻隊を護衛していたが、ホーネット隊の到着を見て要撃のために散開してしまい、クラークらが203空を足止めしている間に追撃していたVF30のベレンド小隊の攻撃に対して、陸攻隊は全くの無防備となってしまった。 零戦の援護がいなくなったのを認識した野中が作戦中止を命じたのか、陸攻隊は編隊を組んだまま急降下しつつ180°旋回し全速力で退避を始めた。一度は陸攻隊のもとを離れた神雷部隊の零戦隊もそれに続いたが、桜花を搭載して速度が著しく低下し、回避もままならない陸攻隊はベレンド小隊とホーネット隊の攻撃で次々と被弾し、これまで大事に抱えてきた桜花を投棄して回避しようとしたが果たせず15分の空戦で全滅した。 一方、ホーネットの戦闘報告書はベローウッドとは少し異なっており、ホーネットの戦闘機隊VF17と戦闘爆撃機隊VBF17の混成隊F6Fヘルキャット8機は16,000〜18,000フィートを飛行する日本軍機に対し、事前に20,000フィート前後の有利な空域で待ち構え、急降下で陸攻を次々と攻撃、陸攻はなすすべなく次々と撃墜されていった。その後、陸攻隊は7,000〜8,000フィートまで高度を下げると、180°旋回して離脱を図ろうとしたが、その際もVF17とVBF17の攻撃が止む事はなかった。これまでにパーリス大尉が協同撃墜も含めて11機、ウィンフィールド中尉が5機、ミッチェル中尉が4機、ジョンソン中尉が3機の陸攻を撃墜したと主張している。護衛戦闘機隊に対しては誘導ミスで到着が遅れたベロー・ウッドの戦闘機隊VF30のF6Fヘルキャット8機が向かい、その後に到着したホーネット隊の戦闘機隊VF10のF4U コルセア8機も増援として加わり、戦力が充実したアメリカ軍戦闘機隊に対し、零戦隊も陸攻を援護できないまま損害を重ねていった。両空母で戦闘機隊の到着順番に多少違いはあるが、戦闘の経緯や結果はほぼ同じであり、日本軍側によればアメリカ軍戦闘機は50機以上との報告であったが、実際に空中戦に参加したアメリカ軍戦闘機は24機と、日本軍機の突破に備えて空母上空に待機していたホーネット隊の残りF6F8機の合計32機であった。 日本軍側の戦闘303の安部によれば、上方から襲い掛かってきた敵戦闘機と戦っている間に陸攻隊は見えなくなってしまったが、ようやく、煙をひきながら垂直上昇中の1機を発見した。やがてその陸攻は半円を描いて墜落をはじめると、途中で炎のかたまりとなって洋上に四散したという。そののち15分ほど空戦上を必死になって駆け回ったが、敵味方とも発見することができず、やむなく単機で帰投しようと反転してしばらく飛んでいると、バラバラで戦っていた零戦隊が集結し、隊長の岡嶋らと合流できた。 空戦の結果、陸攻隊は18機全機撃墜され全滅、零戦隊は30機中10機が未帰還という結果に終わった。桜花隊は三橋謙太郎大尉ほか14名が未帰還となった。18機の母機が全機撃墜されるのにかかった時間は15分から20分程度であった。この戦いで後ろを取られ、必死で機体を左右に滑らせて射線をかわすも、ついに被弾して火を噴き爆発、桜花を吊ったまま墜落する一式陸攻の姿を記録したF6Fのガンカメラ映像が残っている。この戦闘で、攻撃711飛行隊:攻撃隊指揮官・野中五郎少佐ほか134名、戦闘306飛行隊:伊澤勇一大尉ほか6名、戦闘307飛行隊:漆山睦夫大尉ほか2名、も未帰還となった。出撃命令がなかったレーダー搭載型一式陸攻の電探員によれば、桜花1機が整備ミスで出撃できず、離陸直後に零戦2機が空中衝突したと言う。第一神雷部隊の陸攻隊は離陸後、攻撃隊内では意図をもって連絡を取っていたが、司令部には一本の電報もなく、司令部は帰還した戦闘機隊から直接報告を聞いて戦況を把握した。この日生還した零戦は、F6F1機を確実に撃墜した安部をはじめ、ほとんどの機が敵機撃墜を報告した。 第七ニ一海軍航空隊の戦闘詳報には「神雷攻撃の戦機の得ざりしこと並びに直掩戦闘機の出動率僅少なりしことが、この作戦を不成功ならしめたる原因にして、次回作戦に対し大いに研究の余地あり」「第一回神雷攻撃を敢行し、桜花機の使用の限界を判明とし、その後の作戦に資する所、極めて大なり」と記されていた出撃を強行した宇垣中将は陣中日記戦藻録に「其の内援護戦闘機の一部帰着し悲痛なる報告を致せり。即1420頃敵艦隊との推定距離5、60浬に於いて敵グラマン約50機の邀撃を受け空戦、撃墜数機なりしも我も離散し陸攻は桜花を捨て僅々10数分にて全滅の悲運に會せりと。嗚呼」と記している。 一方で、アメリカ軍は多数のF6Fが被弾したが、撃墜されたのはホーネット隊VBF17のクリスチン中尉を含む2機のみであった。一方的な勝利であった為、マリアナ沖海戦同様にこの空戦も「七面鳥狩り」と呼ばれた。ちなみにアメリカ軍の戦果記録は一式陸攻26機撃墜、零戦12機撃墜、雷電2機撃墜、零戦2機撃破、三式戦1機撃破と過大なものであったが、大規模な空戦では日米互いに過大な戦果報告は茶飯事であった。桜花の情報は既にアメリカ側は察知しており、アメリカ軍内部の広報誌「Intelligence Bulletin」31号で通知されていた。その為ホーネット隊VBF17の戦闘詳報では「この日遭遇したベティ(一式陸攻のコードネーム)は翼幅15フィートの小さな翼を付けた魚雷の様な爆弾を搭載していた。これは「Intelligence Bulletin」に掲載されていた日本の空飛ぶ爆弾と思われるが、この爆弾はひとつとして発射される事も投棄されることもなかった」とあるが、一方ベローウッドのVF30は「Intelligence Bulletin」を見てなかったのか桜花の存在を知らず「ベティはGizmo(奇妙な物)を搭載していた。(中略)それは尾翼のないV1飛行爆弾の様だった。我が戦闘機より銃撃され炎上した全てのベティはGizmoを投下したが、それは30°の角度で滑空降下していった。これらは多くの場合に滑空降下中に煙を出したがジェット推進という確証はなかった。本空母と航空隊は日本軍がこのような兵器の使用を試みたという報告を受け取ったことはない。」と報告している。アメリカ軍はこの時点では桜花が有人であるとは認識しておらず、全容が解明されるのは沖縄戦で桜花が無傷で鹵獲されてからであった。 湯野川守正(桜花要員)によれば、桜花の悲報を受けても隊員たちの士気は旺盛だった、編成当初は悩みもあったが、張りきって立派にやっていた、最善を尽くして死ぬのは本望で淡々と順番を待ち生き死にを深刻に考えず人に後ろ指をさされないように、一人でも多くの敵をやっつけると考えていたという。
※この「九州沖航空戦」の解説は、「桜花 (航空機)」の解説の一部です。
「九州沖航空戦」を含む「桜花 (航空機)」の記事については、「桜花 (航空機)」の概要を参照ください。
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