九州沖航空戦とは? わかりやすく解説

九州沖航空戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/01 03:56 UTC 版)

第二次世界大戦 > 太平洋戦争 > 沖縄戦 > 九州沖航空戦
九州沖航空戦

大破した米空母「フランクリン
戦争太平洋戦争/大東亜戦争
年月日1945年3月18日 - 3月21日
場所九州四国沖の海域
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
宇垣纏 マーク・ミッチャー
レイモンド・スプルーアンス
戦力
航空機400(内特攻機193) 空母12
艦上機1,400
損害
戦死282
航空機258以上
空母2大破
航空機89
戦死828以上
沖縄戦

九州沖航空戦(きゅうしゅうおきこうくうせん)は、太平洋戦争大東亜戦争)末期の1945年3月18日から同月21日の間に日本近海の洋上で起こった日本軍航空部隊とアメリカ軍の各海軍部隊による戦闘である。

背景

当時日本の大本営は、3月17日硫黄島守備隊指揮官の栗林忠道中将から訣別電を受けており、硫黄島の戦いにおける日本軍の組織的な抵抗は終わろうとしていた。しかもこの頃、日本本土へのアメリカ軍機による空襲が活発化し、1945年2月にはアメリカ海軍空母部隊が関東地方周辺へ航空攻撃作戦を行った。

大本営は4月初頭にもアメリカ軍が沖縄へ上陸してくることを予見。九州へアメリカの空母部隊がいつ来襲してもおかしくないという危機的な状況であった。

アメリカ海軍は、4月1日の沖縄上陸に向け、日本軍の反撃戦力を事前に殺ぐため日本本土を機動部隊で攻撃することにした。1945年3月初め、アメリカ海軍空母部隊はカタ604船団を全滅させた。

第58任務部隊は一旦ウルシー泊地へ帰還したが、3月11日に九州の鹿屋基地から発進した梓特別攻撃隊の銀河がウルシー泊地に突入し、空母「ランドルフ」を大破させた。

戦闘経過

3月18日、空母12隻を基幹とするマーク・ミッチャー中将率いるアメリカ第58任務部隊艦上機約1,400機が、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将による指揮のもと日本近海に現れ、九州、四国、和歌山などの各地域を襲った。これに対して日本軍は、宇垣纏海軍中将率いる第五航空艦隊(指揮下の陸軍飛行戦隊2個に属する四式重爆撃機「飛龍」を含む)が反撃を開始した。神風特別攻撃隊を含めた日本軍機の攻撃で空母「イントレピッド」、「ヨークタウン」、「エンタープライズ」が小破した。しかし、この日、日本軍は特攻機69機を含む攻撃部隊全193機のうち、約8割である161機を失い、このほか50機が地上で損傷を受けた。さらにアメリカ軍機を迎撃した零式艦上戦闘機も47機の損害を出した。アメリカ軍機の損害は29機撃墜され、2機が損傷したにとどまった。

翌3月19日には、米機動部隊の一部は高知県室戸岬のおよそ80キロ沖にまで接近。艦上機部隊は主に瀬戸内海を空襲し、の軍港に停泊中の日本の水上艦艇の一部を攻撃。軽巡洋艦大淀が中破、空母天城、龍鳳及び戦艦榛名、日向、巡洋艦利根が小破するなどの被害が出た。

これに対し日本軍は、特攻隊を交えた出動可能な全航空兵力をもって激しく反撃。室戸岬に最も近づいていた空母「フランクリン」と「ワスプ」を大破させた。「フランクリン」では戦死者が832名にも及んだ。「フランクリン」への攻撃は、第762海軍航空隊の攻撃第406飛行隊に所属の銀河1機の急降下爆撃によるものである。「フランクリン」は懸命の応急処置により辛うじて沈没だけは免れたが、甚大な被害状況のため米本土に帰還し、終戦まで戦線を離脱した。他の空母1隻も、しばらく戦線を離脱した。

また、同日には、呉軍港を空襲した米艦上機群の一部を、松山海軍航空基地に展開していた第三四三海軍航空隊(通称:「剣」部隊。司令:源田実海軍大佐)指揮下の局地戦闘機「紫電・紫電改」約60機(3個飛行隊の稼働機全機)が松山周辺上空で迎撃し、大規模な空中戦となった。日本側は、F6Fヘルキャット戦闘機など50機あまりを撃墜したと報じ、日本軍の損失は被撃墜・未帰還16機(偵察飛行隊所属の艦上偵察機『彩雲』のうちの1機が高知県津野町上空にて敵機に体当たり自爆したのを含む)の「大勝利」と判断した。これは日本海軍航空隊の最後の大戦果として知られているが、アメリカ軍の記録によると未帰還機・修理不能機数は日本側とほぼ同数にとどまり、規模の大きな空戦にありがちな戦果の誤認があったと見られる。

3月20日、アメリカ軍は沖縄戦に備えるべく空母の補給を行いつつ南西に進み、日本の反撃に耐えた。翌日の3月21日、米機動部隊は都井岬沖の洋上に移動。ここで日本軍は初の桜花の実戦投入を行った。しかし、桜花15機を搭載した第721海軍航空隊所属第1神風桜花特別攻撃隊神雷部隊の一式陸上攻撃機18機全機が米艦上戦闘機群に捕捉されて撃墜された。この日の戦闘では、日本軍の戦死者160名、神雷部隊護衛の零戦10機前後未帰還、他22機の損害を出した。神雷部隊指揮官の野中五郎少佐は、出撃の直前に玉砕戦になることを予期してか「これは湊川だよ」と呟いていた。

結果

戦闘の後、日本の第五航空艦隊が報告した総合撃沈戦果によると、日本軍の戦果は空母5隻・戦艦2隻・重巡洋艦1隻・軽巡洋艦2隻・不詳1隻とされた。大本営海軍部は、航空戦が開始された3月18日から連日にわたって大本営発表を行い、3月23日には総合戦果を発表した。それによると、撃沈が空母5隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、不詳1隻で、撃墜が約180機となっており、日本軍側の損害は約150機とされている。実際には撃沈されたアメリカ軍主力艦艇はないなどこの発表は過大であるが、損傷を与えた艦艇数はほぼ正しく算定されている。一方、日本側の基地航空部隊は主力の第五航空艦隊が戦力の多くを失った。

日本軍は大打撃を受けたアメリカ艦隊が一時的にウルシー環礁へ帰投すると判断したが、実際には作戦を継続するだけの戦力が残っていた。アメリカ機動部隊は3月23日から南西諸島各地を攻撃し、沖縄への増援部隊を乗せたカナ304船団を全滅させるなど日本側に甚大な損害をもたらした。主力の第五航空艦隊が壊滅状態の日本軍は、即座に有効な反撃を行うことができなかった。 その後アメリカ機動部隊はイギリス太平洋艦隊の空母四隻(「イラストリアス」、「ヴィクトリアス」、「インドミタブル」、「インディファティガブル」)からなる機動部隊[1]と合流し、不足分の戦力を補充して沖縄戦に臨んだ。

脚注

  1. ^ [1]2018年9月14日閲覧

参考文献

  • ピーター・ヤング『第二次大戦事典1 日誌・年表』加登川幸太郎・千早正隆訳、原書房、1984年、496-497頁。
  • 日置英剛『年表 太平洋戦争史』国書刊行会、2005年、576-584頁。

関連項目


九州沖航空戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 23:39 UTC 版)

桜花 (航空機)」の記事における「九州沖航空戦」の解説

1945年3月17日米内光政海軍大臣の内令兵第八をもって桜花11型正式に兵器として採用された。 詳細は「九州沖航空戦」を参照 桜花初陣は、1945年3月九州沖航空戦であった3月21日までに、通常攻撃特攻により、第58任務部隊かなりの損害与えていると判断していた第5航空艦隊は、偵察機発見した機動部隊直掩機見られなかった事より、損傷艦誤認しトドメをさす好機到来判断し桜花部隊出動決めた。 しかし、3月18日には164機もあった五航艦の戦闘機も、3日に渡る九州沖航空戦の激戦損失損傷故障が相次ぎ桜花部隊護衛戦闘機神雷部隊32機、203空からの応援23機で合計55機しか準備できなかった。それを知った神雷部隊司令岡村基春大佐は、援護戦闘機少ないことと目標遠距離であることから中止を五航艦司令部上申した。五航艦長宇垣纏中将は「今の状況で使わなければ使うときがないよ」と言って断行した当時得られ情報では計画通り目標であったためである。 桜花出撃中止宇垣中将上申したのは岡村大佐ではなく、五航艦参謀長横井俊之大佐であったという証言もある。横井大佐第1航空戦隊参謀横浜海軍航空隊司令などを歴任した海軍航空専門家で、マリアナ沖海戦では空母飛鷹艦長として参加しアメリカ軍防空能力熟知していた。出撃命令出た後に、横井参謀長より護衛機55機と聞かされ岡村司令が「参謀長、もっと戦闘機出せませんか?」と食って掛かると、作戦困難さを十分理解していた横井参謀長は「岡村大佐55機で不安であれば出撃中止せざるを得ない思われます。」と宇垣中将出撃中止進言したが、宇垣中将岡村大佐の肩に手を置くと、諭すように一語一句ゆっくりとした口調で「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と言い岡村大佐は「ハッやります」と決然と云って挙手をすると、サッと作戦室を後にしたという。 岡村大佐はこの出撃待ち受けて悲惨な状況に、危険性が高い任務には指揮官先頭に立たねばならない考え野中五郎少佐に「今日は俺が行く」と言ったが、野中少佐は「お断ります。司令そんなに私が信用できませんか今日だけはいくら司令お言葉でも、めんこうむります」と言葉荒らげて拒否している。野中少佐人柄より、一度言った事は絶対に撤回しないと岡村大佐熟知していた為、そのまま出撃野中少佐譲ったが、後年に、この時を回顧する度に岡村大佐の目は涙でいっぱいだったという。 その後野中少佐飛行場陸攻指揮所に行く途中飛行長岩城邦広少佐に「ろくに戦闘機の無い状況ではまず成功しない特攻なんてぶっ潰してくれ。これは湊川の戦いだよ」と言った一方で、自ら「野中一家」と名乗り見事に統率してきた隊員に対して野郎ども集まれ」と呼集をかけると「ただいまより敵機部隊撃滅に向かう(中略ただいま以降攻撃開始までは無線中止とする。どんな弱い電波出しちゃならねえ。(中略待ちに待った時がきたのである日頃鍛え鍛えた訓練成果を示す時が来たのである。戦わんかな最後の血の一滴まで国に捧げる時が来たのである諸士健闘を望む。」と普段べらんめえ口調交えながら訓示行って士気鼓舞している。「野中一家」の通例であった勇壮な陣太鼓打ち鳴らされる中で、部下の若い搭乗員らも野中少佐意気応えるように、出撃時には行って来まアす」と大声出し遠足出ていく子供様に笑顔で手を大きく振りながら出撃して行ったと、当時報道班員として神雷部隊取材をしていた作家山岡荘八述べている。 1945年3月21日神雷部隊第一回雷桜特別攻撃隊第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊)を編成沖縄攻撃中の米機動部隊向けて出撃させた。出撃から30分も経たない内に、23機の護衛戦闘機故障等により帰還野中隊に随伴して戦闘機神雷部隊306飛行隊307飛行隊の直援戦闘機19機と、岡嶋清熊少佐率い203空戦闘303飛行隊の間接援護11機の合計30機になってしまった。護衛戦闘機離脱相次いでる事、また、その後索敵で、先に発見していた目標機動部隊は3群に分れていた内の1群であり、3群合計で7隻以上の空母を発見当初見込みよりも遥かに戦力大きい事も判明し一部参謀から野中隊へ帰還命令発するよう宇垣中将進言があったが、宇垣中将は「神雷部隊今や敵の目前迫っている。すでに必殺必死誓っている若い連中呼び戻す忍びないと言ってこれを聞き入れなかった。 宇垣中将本日出撃ここまで拘った理由として、陣中日記戦藻録」の記述によれば18日特攻兵力使用の機を窺い続け、(中略今にして機会逃せば再び隊の遠征余儀なくされ、しかも成功の算大ならず、如かず今神攻撃を行うにはと決意し待機中の桜花隊に決行命ず。」としており、先の3月11日銀河24機にアメリカ海軍前線基地ウルシー環礁への特攻攻撃行い、1機しか命中できなかった神風特攻隊を例に出し、ここでアメリカ軍機動部隊後退見逃せば、成功率が低いウルシーへの再度攻撃余儀なくされる判断したためとしている。野中隊は南下する途中で「敵発見」の打電をした偵察機彩雲と高度差200mですれ違ったが、彩雲偵察馬渡武男兵曹野中隊に「しっかりやってくれ」と祈る気持ちで手を振っている。 しかし、野中隊は進撃中に敵艦隊にレーダー捕捉されてしまい、正規空母ホーネット軽空母ベローウッド迎撃戦闘機野中隊を邀撃した。ベローウッド戦闘報告によればスクランブル発進したベロー・ウッド戦闘機隊VF30のF6Fヘルキャット8機が、陸攻隊が高度13,000フィート直掩戦闘機10数機が14,000フィート、更に高高度援護戦闘機10数機が16,000フィート三層飛行しているのを発見し18,000フィートまで高度を上げ攻撃のため急降下した最初に攻撃されたのは神雷部隊306飛行隊307飛行隊の直援戦闘機隊であり、この時点では直掩零戦の機数が多かったが、この日に306飛行隊として出撃していた野口によればアメリカ軍戦闘機隊から後方上空より不意に攻撃仕掛けられ次々と直掩零戦撃墜されていったとの事で、不利な状況で機数の優位性発揮できなかった。 VF30は援護零戦蹴散らす陸攻隊に攻撃をしかけ、陸攻隊はチャフ散布しながら退避行動取ったが、初弾逃れた高高度援護岡嶋戦闘303が、陸攻隊を追撃していたVF30の飛行隊長D.A.クラーク少佐と列機のJ.G.ミラー少尉の2機に太陽を背にして攻撃してきた。たちまちクラークら2機のF6F戦闘30311機の零戦空戦となったが、わずか2機のF6F203空手間取って足止めされて、他のベローウッドF6F陸攻隊を攻撃するのを止めることができなかった。戦闘303でこの日出撃した安部正治によれば左前方から回り込んできたF6F迎撃するため、隊長岡嶋らと増槽切り離した直後に、左上方からほかのF6F隊に攻撃されとのことで、レーダー管制により二段構え待ち構えられていたと感じたという。その後乱戦となり、岡嶋らとはぐれた安部は、一団飛行していた戦闘303零戦次々と命中弾を与えていたF6F襲い掛かり20機銃13機銃浴びせて風防と左尾翼吹っ飛んで墜落していくのを確認した。 VF30のクラーク少佐が機数では無勢ながら直掩零戦引き付け分断している間に、ホーネット戦闘機VF17戦闘爆撃機隊VBF17のF6F8機が到着した最初一撃大きな損害被っていた神雷部隊直掩戦闘機隊は、常々「腕で神桜花)を守れなかったら身をもって護れ」と叩きこまれ、出撃時に再度徹底されていたので、引き続き陸攻隊を護衛していたが、ホーネット隊の到着見て要撃のために散開してしまい、クラークらが203空足止めしている間に追撃していたVF30のベレンド小隊攻撃に対して陸攻隊は全くの無防備となってしまった。 零戦援護がいなくなったのを認識した野中作戦中止命じたのか、陸攻隊は編隊組んだまま急降下しつつ180°旋回し全速力退避始めた一度陸攻隊のもとを離れた神雷部隊零戦隊もそれに続いたが、桜花搭載して速度著しく低下し回避ままならない陸攻隊はベレンド小隊ホーネット隊の攻撃次々と被弾しこれまで大事に抱えてきた桜花投棄し回避しようとしたが果たせ15分空戦全滅した一方ホーネット戦闘報告書はベローウッドとは少し異なっており、ホーネット戦闘機VF17戦闘爆撃機隊VBF17の混成F6Fヘルキャット8機は16,00018,000フィート飛行する日本軍機に対し事前に20,000フィート前後有利な空域待ち構え急降下陸攻次々と攻撃陸攻なすすべなく次々と撃墜されていったその後陸攻隊は7,000〜8,000フィートまで高度を下げると、180°旋回して離脱図ろうとしたが、その際VF17とVBF17の攻撃が止む事はなかった。これまでパーリス大尉協同撃墜含めて11機、ウィンフィールド中尉が5機、ミッチェル中尉が4機、ジョンソン中尉が3機の陸攻撃墜した主張している。護衛戦闘機に対して誘導ミス到着遅れたベロー・ウッド戦闘機隊VF30のF6Fヘルキャット8機が向かいその後到着したホーネット隊の戦闘機隊VF10のF4U コルセア8機も増援として加わり戦力充実したアメリカ軍戦闘機隊に対し零戦隊も陸攻援護できないまま損害重ねていった。両空母戦闘機隊の到着順番多少違いはあるが、戦闘の経緯結果はほぼ同じであり、日本軍によればアメリカ軍戦闘機50機以上との報告であったが、実際に空中戦参加したアメリカ軍戦闘機24機と、日本軍機の突破備えて空母上空待機していたホーネット隊の残りF6F8機の合計32であった日本軍側の戦闘303安部によれば上方から襲い掛かってきた敵戦闘機戦っている間に陸攻隊は見えなくなってしまったが、ようやく、煙をひきながら垂直上昇中の1機を発見した。やがてその陸攻半円描いて墜落をはじめると、途中で炎のかたまりとなって洋上四散したという。そののち15分ほど空戦上を必死になって駆け回ったが、敵味方とも発見することができず、やむなく単機帰投しようと反転してしばらく飛んでいると、バラバラ戦っていた零戦隊が集結し隊長岡嶋らと合流できた。 空戦結果陸攻隊は18全機撃墜され全滅零戦隊は30機中10機が未帰還という結果終わった桜花隊は三橋謙太大尉ほか14名が未帰還となった18機の母機全機撃墜されるのにかかった時間15分から20程度であった。この戦いで後ろ取られ必死機体左右に滑らせ射線をかわすも、ついに被弾して火を噴き爆発桜花を吊ったまま墜落する一式陸攻の姿を記録したF6Fガンカメラ映像残っている。この戦闘で、攻撃711飛行隊攻撃指揮官野中五郎少佐ほか134名、戦闘306飛行隊伊澤一大尉ほか6名、戦闘307飛行隊漆山睦夫大尉ほか2名、も未帰還となった出撃命令がなかったレーダー搭載型一式陸攻電探によれば桜花1機が整備ミス出撃できず、離陸直後零戦2機が空中衝突したと言う第一神雷部隊陸攻隊は離陸後、攻撃隊内では意図をもって連絡取っていたが、司令部には一本電報もなく、司令部帰還した戦闘機隊から直接報告聞いて戦況把握した。この日生還した零戦は、F6F1機を確実に撃墜した安部をはじめ、ほとんどの機が敵機撃墜報告した第七ニ一海軍航空隊戦闘詳報には「神攻撃戦機の得ざりしこと並びに直掩戦闘機出動僅少なりしことが、この作戦不成功ならしめたる原因にして、次回作戦対し大い研究余地あり」「第一回攻撃敢行し、桜花機の使用限界判明とし、その後の作戦資する所、極めて大なり」と記されていた出撃強行した宇垣中将陣中日記戦藻録に「其の内援護戦闘機一部帰着し悲痛な報告致せり。即1420頃敵艦隊との推定距離5、60に於いてグラマン50機の邀撃を受け空戦撃墜数機なりしも我も離散し陸攻桜花捨て僅々10数分にて全滅悲運會せりと。嗚呼」と記している。 一方でアメリカ軍多数F6F被弾したが、撃墜されたのはホーネット隊VBF17のクリスチン中尉を含む2機のみであった一方的な勝利であった為、マリアナ沖海戦同様にこの空戦も「七面鳥狩り」と呼ばれたちなみにアメリカ軍戦果記録一式陸攻26撃墜零戦12撃墜雷電2機撃墜零戦2機撃破三式戦1機撃破過大なものであったが、大規模な空戦では日米互いに過大な戦果報告茶飯事であった桜花情報は既にアメリカ側察知しており、アメリカ軍内部広報誌Intelligence Bulletin31号で通知されていた。その為ホーネット隊VBF17の戦闘詳報では「この日遭遇したベティ一式陸攻コードネーム)は翼幅15フィート小さな翼付けた魚雷の様な爆弾搭載していた。これは「Intelligence Bulletin」に掲載されていた日本空飛ぶ爆弾思われるが、この爆弾ひとつとして発射される事も投棄されることもなかった」とあるが、一方ベローウッドのVF30は「Intelligence Bulletin」を見てなかったのか桜花存在知らずベティGizmo奇妙な物)を搭載していた。(中略)それは尾翼のないV1飛行爆弾様だった。我が戦闘機より銃撃され炎上した全てのベティGizmo投下したが、それは30°の角度滑空降下していった。これらは多く場合滑空降下中に煙を出したジェット推進という確証はなかった。本空母航空隊日本軍このような兵器使用試みたという報告受け取ったことはない。」と報告している。アメリカ軍はこの時点では桜花有人であるとは認識しておらず、全容解明されるのは沖縄戦桜花無傷鹵獲されてからであった湯野川守正(桜花要員によれば桜花悲報受けて隊員たちの士気旺盛だった、編成当初悩みもあったが、張りきって立派にやっていた、最善尽くして死ぬのは本望淡々と順番待ち生き死に深刻に考えず人に後ろ指をさされないように、一人でも多くの敵をやっつけると考えていたという。

※この「九州沖航空戦」の解説は、「桜花 (航空機)」の解説の一部です。
「九州沖航空戦」を含む「桜花 (航空機)」の記事については、「桜花 (航空機)」の概要を参照ください。

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