国吉の丘陵地帯における戦闘とは? わかりやすく解説

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国吉の丘陵地帯における戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 14:39 UTC 版)

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国吉の丘陵地帯における戦闘

沖縄南部を占領したアメリカ軍
戦争太平洋戦争
年月日1945年6月11日 - 6月17日
場所沖縄本島南部摩文仁付近の国吉(現糸満市
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
主部隊不明
藤岡武雄(予備兵力)
不明
戦力
主戦力:歩兵第32連隊
予備隊の第62師団含む
合計約1000人
不明
損害
兵士・民間人とも不明 戦死傷者 1150人
沖縄戦

国吉の丘陵地帯における戦闘とは、沖縄戦終盤間近に行われた戦闘である。アメリカ軍側には詳細な戦闘記録は残っているものの、○×の戦いのように命名は無いようである(下記参考資料より)。しかし、首里撤退後の戦いとしては、日本軍の最終防衛線としてお互いつながっていたに等しい与座八重瀬岳(与座・八重瀬岳の戦い)と並び極めて激しい戦闘であったという。アメリカ側の資料を紐解くと、まさに「戦車でないと危険すぎて近づけない、または安全ではない」という状況であったという。

戦闘を名付けた資料がないため、暫定的にこのタイトルで表記にしてある。サイトによっては国吉台地の戦闘としてあるところもある。

概要

この戦いは1945年6月11日から6月17日にわたって行われた戦いである。与座の戦いもあったように激しい戦闘となったのは、背後がすぐ摩文仁の日本軍本陣であり、この丘陵地帯を落とされると司令部本陣一帯を見渡せてしまうためこれを渡すまいと最後の力を振り絞って日本軍側は激しく抵抗したからである。両陣地とも実質的に最後の防衛線であった。そのため日本軍側は陣地を築き、対戦車砲機関銃、予備兵力たる実質戦闘力がなかった第62師団 (日本軍)独立混成旅団までも投入して最後の抵抗を見せた。結果として凄まじいまでの激戦となる。

地の利は完全に日本軍側の手にあったが、すでに全くと言っていいほど戦力のなかった日本軍はわずかな兵を長い戦線に貼り付けておくしかできず、実質第2第3防衛ラインの構築は全くの不可能であったとされる[1]。この中には戦闘力を失っていたに等しいが予備兵力として指定されていた62師団ですら南部最終各防衛線に貼り付いていたように、当地を防衛する日本軍部隊も戦闘可能な兵は定数に比べて実数的にはわずかであった[2]。そのような台所事情のため、日本軍部隊が張り付いている戦線が最終防衛ラインであった。しかし、完全な地の利はあったためわずかな兵・長い戦線でも米側に多大な損失を強いることができたのである。

戦闘経過

6月11日・12日

11日にアメリカ軍は摩文仁を落とさんとすべく沖縄の南部における西部側から、国吉を通って進撃を開始した。しかし、突如国吉広陵で日本軍陣地から機関銃や小銃などが火を噴き、激しい抵抗にあい釘づけにされた。しかも悪いことに国吉陣地近くの与座陣地からも日本軍の野戦砲の砲門が開き激しい砲撃に会い攻撃がとん挫してしまった。両陣地からアメリカ側を見渡せたため的確な抵抗に合い(特に与座からは見晴らしがよかった)、死傷者は増大。11日~12日は救援のためにアメリカ側は戦車を使用し、負傷者の後送と血漿の輸送、弾薬の補給に明け暮れたとされている。文字通りのピストン輸送であった。さらに航空機からの補給物資も投下がされたが丘の地形では効果的では無かったという。

13日 - 17日

13日はアメリカ側の2個連隊に140人の死傷者が出たとされる。また多数の航空機による物資投下もなされたが、前述のように効果的ではなく受け取ることが困難であった。

米側戦車は戦闘と後送のために、前線と後衛陣地を行き来し攻撃と輸送に明け暮れた。対する日本側は一式機動四十七粍速射砲や野砲などで激しく応戦、17日までに嘉数の戦いと同じく、多数の戦車を破壊することに成功している。米側は日本側を掃討するのに火炎放射戦車を投入したが、この速射砲攻撃のためにうまくいかず記録によれば5日間で21両を破壊されたという。なお、参考資料には嘉数のような自爆戦の記述はない。

その後

17日になり日本側の抵抗らしい抵抗は止んだが、アメリカ側は13日から17日まで1150名もの死傷者を出した。文字通り戦車でないと危険すぎて近づくことは困難であったという。アメリカ側の資料には、「航空機や戦車で休まず攻撃を加え、戦意を喪失するまで17日になっても進撃は無理であった」とされる。

この戦いと並行して、ほぼ同じ時期に17日まで与座・八重瀬岳の戦いも行われた。

結果として、国吉陣地は米側の手に落ちた。そして最後の防衛線たる与座・八重瀬岳陣地も陥落し日本軍は事実上沖縄戦に敗北したこととなる。

国吉戦線含め17日までに各戦線の防衛隊は八重瀬岳方面の独立混成第44旅団は、6月14日までにほぼ全滅した。6月15日頃、第32軍司令部への侵攻を防ぐため第62師団は全力反撃を実施したが、残存戦力の大半を失った。喜屋武地区の第24師団も、6月17日には師団としての組織的抵抗が不能の状態となった。17日までにほぼ各戦線の防衛線他、国吉戦線、与座・八重瀬岳戦線等遂に各最終防衛線が突破されるなど各戦線が崩壊、それらを埋める兵力・武器弾薬は無きに等しく、日本軍は潰走を重ねるのみとなる。

戦力

日本軍

  • 主兵力:主に歩兵第32連隊とされるが詳細は不明。この時期の大隊定数は250名ほどであり、大隊としては中隊規模という異例の低戦力であった。
  • 予備兵力:第62師団 (日本軍)[3]

アメリカ軍

  • 2個大隊(2個連隊相当戦力)…他の投入戦力はあったが、その戦力や上級部隊など詳細は不明

その他

この戦いの日本側の資料が日本兵が残した一つの手記以外ない[1] ため、日本側視点からは殆ど一切が不明である。そもそも沖縄戦における戦闘詳報は米側によっていることが多い[4]

脚注

  1. ^ a b 国吉台地の戦闘
  2. ^ この当地を守る大隊は2個置かれていたとされるが、その大隊は大隊としては異例の定数わずか250名ほどである。中隊規模の定数であった。戦闘可能人員に至っては下記サイトによれば30パーセントほどであったという。
  3. ^ すでに武器弾薬も動員可能な兵力・戦闘力はなく、実質全滅している部隊であった。図説 沖縄の戦い 太平洋戦争研究会篇 森山康平著
  4. ^ 図説 沖縄の戦い 太平洋戦争研究会篇 森山康平著

参考文献

  • 図説 沖縄の戦い 太平洋戦争研究会篇 森山康平著

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