アメリカ本土砲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:33 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動アメリカ本土砲撃 | |
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![]() アメリカ本土砲撃を行った日本海軍の巡潜乙型潜水艦 | |
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1942年2月・6月 | |
場所:![]() ![]() | |
結果:日本海軍による砲撃成功 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
山本五十六司令長官(海軍大将) | |
戦力 | |
フォート・スティーブンス 陸軍航空軍哨戒機数機 沿岸防衛隊 軍無線局 |
巡潜乙型潜水艦4隻 |
損害 | |
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なし |
アメリカ本土砲撃(アメリカほんどほうげき)は、第二次世界大戦中の大日本帝国海軍(以下、日本海軍という)の艦船によって行われた、一連のアメリカ合衆国本土およびカナダ本土への砲撃(艦砲射撃)作戦のことである。
作戦
複数都市砲撃作戦
1941年12月に行われた日本海軍の航空母艦搭載機による真珠湾攻撃による日米間の開戦後、日本軍は太平洋やアジア各地で敗走を続けるアメリカ軍やイギリス軍、オランダ軍をはじめとする連合国軍を圧倒し、その支配地域を広げて行った。
このような状況下で、日本海軍はアメリカ本土への潜水艦による砲撃を計画し、その一環として、同月25日に通商破壊作戦を行うべく北太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の巡潜乙型潜水艦9隻(10隻との説もある)によって、一斉にアメリカ西海岸沿岸のロサンゼルスやサンディエゴ、モントレー、ユーレカ、アストリアなど計8都市を砲撃するという作戦を計画した[1]。
しかし、実行日の12月25日直前に27日以降へ延期するとの命令が下され(クリスマスに砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので延期されたという説がある[1])、さらにその後各潜水艦が燃料不足となり、同時砲撃が行えなくなったために作戦は中止となって各艦は帰投した[1]。しかしその後もこれらの潜水艦は通商破壊戦をアメリカ西海岸沿岸で繰り広げ、多くの貨物船やタンカーを撃沈するなどの成果を上げた。
エルウッド製油所砲撃作戦
その後も北太平洋において通商破壊作戦を展開していた「伊号第一七潜水艦」(以下「伊17」とする)は、1942年2月22日にカリフォルニア州サンディエゴ沖からロサンゼルス市の北方にあるサンタバーバラ沖に移動した後、2月23日の午後7時15分(現地時間)にサンタバーバラ近郊にあるエルウッド石油製油所への艦砲射撃を行った[2][3]。
「伊17」は14センチ砲を17発発射したが、砲弾が徹甲弾であった為に多くが不発となり、施設への被害は僅かに留まった[2]。人的被害も、不発弾の処理中に兵士1名が負傷したのみだった[2]。
しかしこの砲撃作戦は、アメリカ本土への日本軍の攻撃と上陸を警戒していたアメリカ政府と軍、国民に大きな動揺を与え、当日はカリフォルニア州沿岸のモントレーからロサンゼルス、サンディエゴに至るまでの広い地域で灯火管制とラジオ放送の中止が行われた[要出典]。
さらに翌々日には、この砲撃作戦により過敏になったアメリカ陸軍による、カリフォルニア州南部沿岸地域に対する日本軍機の大規模な空襲を誤認した「ロサンゼルスの戦い」が引き起こされることになるなど(後述)、アメリカ国民をパニックに陥らせる結果となる。
バンクーバー島砲撃作戦
同年6月20日には伊17と同じ乙型潜水艦の「伊号第二十六潜水艦」が、カナダ本土の太平洋岸のバンクーバー島エステヴァン岬にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。「伊26」は30発の砲撃を行ったものの、無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで、大きな被害を与えることはなかった。
フォート・スティーブンス砲撃作戦
「伊26」によるバンクーバー島砲撃作戦の翌日の6月21日、「伊号第二五潜水艦」がオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地を潜水艦基地と誤認し、14センチ砲で砲撃を行った[4]。
当初はアストリア市も砲撃対象としていたものの、コロンビア川の河口を入ったところにあるアストリア市へ砲撃は届かなかった。しかし突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、陸砲が配備されていたにも拘らず「伊25」に対して何の反撃も行えなかった[5]。この砲撃によって電話線や送電線が一時寸断されたものの、基地施設の損害は皆無であった。また、人的被害も配置に付く際に慌てたため頭に軽傷を負った兵士1人のみである[4]。
フォート・スティーブンス砲撃は、アメリカ本土にある基地への外国軍による攻撃としては米英戦争以来のものであり、その後現在に至るまで外国の正規軍によるアメリカ本土の基地への軍事攻撃は行われていない(その後も日本軍によってハワイやアラスカへの攻撃が行われたが、これらは本土ではない)。
その他の潜水艦による作戦
通商破壊作戦
これらの活動に併せて、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を10隻以上撃沈し、中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、多くのアメリカ市民が見ている目前で貨物船を撃沈するなど、開戦以来日本海軍の潜水艦による攻撃行動がアメリカ及びカナダの太平洋岸地域で多数行われていた。
また、これらの潜水艦によるシアトルやサンフランシスコ、ロサンゼルスやサンフランシスコ周辺のアメリカ海軍基地に対する偵察も、当時行われていたことが戦後明らかになっている。
アメリカ本土空襲作戦
日本海軍令部は、先立ってフォート・スティーブンス砲撃を行った「伊25」に搭載されている零式小型水上偵察機によるアメリカ本土への空襲を、9月に2度にわたり行い、2度ともアメリカ軍からさしたる反撃も受けないまま成功した。
アメリカの反応
情報管制
1942年6月21日にフォート・スティーブンスへの攻撃を受けた際に、アメリカ政府は自国の基地が攻撃を受けた事実こそ認めたものの、国民の動揺を防ぐためと防諜上の理由から攻撃を受けた基地名を公表しないようマスコミに指示を出した。
また、9月にオレゴン州に空襲を受けた際にも、太平洋戦線における相次ぐアメリカ軍の敗北と、相次ぐ自国本土への攻撃に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、軍民に厳重な緘口令を敷きこの空襲があった事実そのものを極秘扱いにした。しかし、まもなくマスコミに知れ渡ることになり、当時太平洋戦線で負け続きであったアメリカ国民を大いに怯えさせることとなった。
政府と軍への非難
日米間の開戦後に、サンフランシスコやロングビーチ、サンディエゴ等の西海岸の主要な港湾においては、日本海軍機動部隊の襲来や陸軍部隊の上陸作戦の実行を恐れて、陸海軍の主導で潜水艦の侵入を阻止するネットや機雷の敷設を行った他、その他の都市でも爆撃を恐れ、防空壕を作り、防毒マスクの市民への配布などを行っていた。
しかし、数度に渡る潜水艦による砲撃作戦の成功のみならず、沿岸での通商破壊戦が行われたことに対して、アメリカ陸海軍がさしたる反撃すらできなかったことに対して、アメリカ国民からは政府と軍の防衛体制に対して批判が相次いだ。
ロサンゼルスの戦い

なお上記のように、日本海軍の潜水艦によるエルウッド石油製油所への砲撃作戦が実施された翌々日には、同じ南カリフォルニアのロサンゼルスにおいて、アメリカ陸軍が観測気球らしき飛来物を日本軍の航空機と誤認し、多数の対空砲火を行った「ロサンゼルスの戦い」が発生した。
一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は気を抜いたアメリカ海軍の失態」であるとして、この事件における陸軍の対応を支持するなど[要出典]、相次ぐ日本軍の襲来を受けた世論の沸騰を受けて西海岸における防空体制はさらに強化されることとなった[要出典]。
哨戒体制強化
この一連の砲撃と空襲作戦の成功以降、西海岸地域を問わずアメリカの全ての沿岸部における哨戒活動および防空が厳重なものとなり、サンフランシスコやロングビーチ、サンディエゴ等の西海岸の主要な港湾においては、日本海軍機動部隊の襲来や陸軍部隊の上陸作戦の実行を恐れて、陸海軍の主導で潜水艦の侵入を阻止するネットや機雷の敷設を行った他、その他の都市でも爆撃を恐れ、防空壕を作り避難訓練を実施をし、灯火管制を行い映画館やナイトクラブの夜間の営業停止、防毒マスクの市民への配布などを行っていた。さらには西海岸沿岸地域に住む子供たちの学童疎開が検討された。
日系人の強制収容の正当化
なお、この一連の砲撃と空襲作戦の過程においては、日本人移民や日系アメリカ人の関与、協力などは何もなかったにも拘らず成功を収めたことから、人種差別的指向を持ち、さらに日本軍の上陸を恐れていたフランクリン・ルーズベルト大統領の命令により、1942年2月からハワイを除くアメリカ全土で行われていた日系人の強制収容を正当化する口実の1つになった[6]。
他の枢軸国によるアメリカ本土攻撃
日本の同盟国のドイツ海軍の潜水艦によって、アメリカ東海岸沿岸やメキシコ湾における連合国の民間船に対する通商破壊作戦、ドイツ軍のスパイによるアメリカ国内におけるテロなどの破壊行為が多数行われたが、特にドイツ海軍は潜水艦が有名であったにもかかわらず、これらの潜水艦によるアメリカ本土への砲撃は終戦に至るまで一度も行われなかった。
さらにドイツ軍やイタリア軍の航空機によるアメリカ本土への爆撃は計画されたものの、潜水艦の艦載機が複数回成功した日本軍と違って、終戦までに一度も行われなかった[7]。
映画
脚注
- ^ a b c 『歴史群像アーカイブ Filing book』VOLUME 9 帝国海軍太平洋作戦史 1、学習研究社〈歴史群像シリーズ〉、2009年、99頁。ISBN 978-4056056112。
- ^ a b c Attack on Ellwood – Goleta History
- ^ 実際の攻撃の様子は、伊17に乗艦して作戦に参加した南部伸清の手記『米機動部隊を奇襲せよ。潜水空母「401」艦長の手記』(二見書房1999)に詳しく記載されている。
- ^ a b “Bombs Fall on Oregon: Japanese Attacks on the State” (英語). Life on the Home Front. 2015年3月25日閲覧。
- ^ 帝国海軍太平洋作戦史 2009, p. 102
- ^ 産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班『ルーズベルト秘録』上、産経新聞ニュースサービス〈扶桑社文庫〉、2001年、[要ページ番号]。ISBN 4-594-03318-0。
- ^ エーリヒ・ギンペル『Uボートで来たスパイ あるナチス・ドイツ諜報員の回想』村田綾子(訳)、扶桑社、2006年、[要ページ番号]。ISBN 4594051219。
関連項目
アメリカ本土砲撃
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「伊号第二十五潜水艦」の記事における「アメリカ本土砲撃」の解説
5月11日1330、伊25はAL作戦に参加して横須賀を出港。26日、ダッチハーバーを飛行偵察するための準備を行う。27日未明、発進準備中に米巡洋艦が接近。そのため搭載機を発進させようとしたが、射出機の故障により発進できないため砲撃準備を行った。巡洋艦は伊25を見つけず、2000m離れた位置を通過して去っていった。その後、射出機を修理して飛行偵察を行い、巡洋艦3、駆逐艦8、輸送船6の在泊を報告。搭載機を揚収して潜航した後、駆逐艦2隻がやってきたが、伊25は見つからなかった。29日、シアトル西北西700浬地点付近で巡洋艦と輸送船1隻ずつを発見するが、接近中に見失う。そのため、搭載機を発進させたが、厚い雲に覆われているため見つけられなかった。 6月2日、シアトル沖に到着。5日、シアトル近海で12,000トン級輸送船を発見して魚雷2本を発射したが、命中しなかった。14日、オレゴン州沖に移動し、竹製の偽の潜望鏡を周辺に撒いた。21日、北緯47度22分 西経125度30分 / 北緯47.367度 西経125.500度 / 47.367; -125.500のフラッタリー岬近海で英貨物船フォート・カモスン(Fort Camosun、7,126トン)を雷撃して撃破。撃破されたフォート・カモスンは、ネアー湾(英語版)へと待避している。この時、カナダ海軍のコルベット・クイネル(en:HMCS Quesnel)が伊25を捜索したが、見つかることはなかった。 22日、オレゴン州アストリア市郊外のフォート・スティーブンス(英語版)陸軍基地を潜水艦基地と誤認し、後部主砲で砲弾17発を発射(フォート・スティーブンス砲撃)。 当初は、アストリア市街も攻撃目標に含んでいたものの、コロンビア川の河口を入ったところにあるアストリア市街へ砲撃は届かなかった。突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、陸砲が配備されていたにも拘らず伊25に対して何の反撃も行えなかった。この砲撃によって電話線や送電線が一時寸断されたものの、基地施設の損害は皆無であった。また、人的被害も配置に付く際に転んで頭を切った兵士1人のみである。 なお、この攻撃は、米英戦争以来、およそ130年ぶりのアメリカ本土に所在するアメリカ軍基地への攻撃であり、その後現在に至るまで外国軍によるアメリカ本土の基地への軍事攻撃は行われていない。また、1発がゴルフ場に着弾しており、現在そこには記念碑が建てられている。 その後、訓練飛行中だった航空機が伊25を発見し、まもなく通報を受けたA-29ハドソン攻撃機が出撃している。ハドソン攻撃機は伊25に対する爆撃を行ったものの、損傷を与えることはできなかった。 27日、ダッチハーバー南方沖に到達し哨戒。30日、哨戒区域を離れ、7月17日に横須賀に到着した。8月10日、第4潜水隊の解隊に伴い、第2潜水隊に編入された。
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