察哈爾民衆抗日同盟軍
察哈爾民衆抗日同盟軍
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1932年(民国21年)1月に吉鴻昌は帰国し、共産党華北政治保衛局などと連絡を取り合う。8月には湖北省で旧部隊の蜂起を敢行しようと図った。しかし、これは失敗に終わり、国民政府から指名手配を受けてしまう。同年秋、吉は正式に共産党に加入した。9月からは馮玉祥と密談し、張家口などで抗日反蔣の蜂起を準備し始める。翌1933年(民国22年)1月、長城抗戦が勃発する。同年5月26日、馮と吉は、張家口で察哈爾民衆抗日同盟軍の成立を宣言した。馮が総司令、佟麟閣が第1軍軍長、吉が第2軍軍長となっている。6月20日、吉は前敵総指揮に任命され、7月12日にはドロンノール(多倫)を急襲、攻略する軍功をあげ、国内でも大きな名声を得た。 しかし、国民政府中央の蔣介石・汪兆銘(汪精衛)は同盟軍の存在を許さず、何応欽に命じて同盟軍を包囲して圧力を加えた。このため8月4日には馮玉祥が下野に追い込まれ、同盟軍は事実上解散となった。同盟軍の多くは宋哲元軍に合流したものの、吉鴻昌や方振武はこれに応じず、抗日反蔣の軍事活動を継続する。しかし日本軍・国民党軍の挟み撃ちに遭う形となって軍の損害は大きく、10月16日、吉・方は国民革命軍第32軍軍長商震に事実上降伏した。北平へ護送される途中、方は吉の助言により脱走し、吉も護送人員の配慮により逃亡している。
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察哈爾民衆抗日同盟軍
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北伐終了後、軍縮に伴い、方振武は第45師師長に任じられる。1929年(民国18年)3月に国民党中央執行委員に選出された。4月には、討逆軍第6路総指揮等に任じられ、5月には安徽省政府主席も務めた。ところが、反蔣介石派に対する方針をめぐって蔣介石と次第に対立するようになる。そして韓復榘、石友三らと反蔣の企てを図ったとして同年9月に方は逮捕され、湯山陸軍監獄に収監される。1930年(民国19年)10月には、党籍剥奪1年の処罰を受けた。 1931年(民国20年)10月、処分が解除され、党中央執行委員として復帰したが、方振武は再び馮玉祥との連携を強めるようになる。1933年(民国22年)2月、晋南で抗日救国軍を組織し、総指揮として北上抗日を呼びかけた。5月26日、馮玉祥、吉鴻昌らと察哈爾民衆抗日同盟軍に参加し、副総司令、兼北路前敵総司令(6月20日~)をつとめた。しかし、蔣介石の圧力などもあって抗日同盟軍は解散に追い込まれ、方は香港へ逃れた。香港では、中華民族解放行動委員会に加わり、1938年(民国27年)3月に中央委員に選出された。 1941年(民国30年)12月、日本軍による香港占領に伴い逃走したが、その途中の広東省中山県で何者かにより暗殺された。享年60。暗殺を実行したのは青幇系の特務組織「忠義救国軍(中国語版)」とされる。
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