察元との争碁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/28 08:57 UTC 版)
宝暦6年(1756年)に本因坊察元は七段昇段を他家に申し入れ、因碩と七世林転入門入が反対したが、察元が争碁を申し入れたことで昇段を認めた。明和元年(1764年)に因碩と察元は同時に八段昇段する。明和3年(1766年)に察元は名人碁所を願い出て、因碩と20番の争碁(互先)を打つこととなる。1局目を御城碁で打ちジゴとした後、翌年3月まで6局で察元5勝1ジゴとなり、因碩は病気を理由に中絶し、察元は寺社奉行に願い出て九段(名人)となった。
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