盧溝橋事件までの活動
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北伐完了後の1929年(民国18年)1月、馮治安は陸軍大学特別班第1期生として入学する。同年中に修了して部隊に復帰すると、馮玉祥と蒋介石の対立は激化しており、馮治安も反蒋戦争を戦うが中原大戦の敗北により降伏を余儀なくされた。その後、馮治安は宋哲元に随従して張学良配下に再編され、第29軍軍長となった宋の下で第37師師長に任ぜられている。1932年(民国21年)8月、察哈爾省警備司令に任命された。 1933年(民国22年)1月、日本軍が山海関へ向けて侵攻を開始し、宋哲元率いる第29軍はこれを迎撃することになる(長城抗戦)。馮治安率いる第37師は3月9日に喜峰口へ到着、16日まで日本軍と激戦を繰り広げてこれを撃退することに成功した。この軍功は国内世論の喝采を集め、馮治安は国民政府からも青天白日勲章を授与された。なお、同年5月に馮玉祥が察哈爾民衆抗日同盟軍を結成した際には、馮治安もこれを密かに支持している。1935年(民国24年)4月、馮治安は陸軍中将銜を授与され、さらに廬山軍官訓練団にも参加した。1936年(民国25年)、冀察政務委員会委員長の任務に専念する宋に代わり、馮治安が河北省政府主席に任ぜられた。またこの頃から、日本軍との交渉が負担となる宋に代わり、馮治安が第29軍の軍務を取り仕切ることが多くなる。 1937年(民国26年)7月7日、盧溝橋事件が勃発すると、馮治安は直ちに指揮下にあった第37師に迎撃と宛平の死守を指示、しばらくは善く守った。しかし宋哲元の防衛方針が一貫しなかったことなどもあり、第29軍全体としては組織だった防衛を行うことができなかった。結局、7月28日に第29軍副軍長佟麟閣と第132師師長趙登禹が南苑で戦死、宋・馮ら第29軍幹部は北平から保定に逃れ、敗退した第29軍の再編にあたった。
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