盧溝橋事件まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 14:37 UTC 版)
長野県上水内郡朝陽村(現長野市)の自作農今井熊太郎の六子のうち末子・四男として生まれた。1915年(大正4年)、(旧制)長野中学校を卒業(15回生)。六年制になったばかりの尋常小学校初の卒業生で、早生まれのため、高等小学校卒業生の多かった長野中学卒業生の中で今井は2番目に若かった。1918年(大正7年)、陸軍士官学校(30期、兵科は歩兵)を、1928年(昭和3年)、陸軍大学校(40期)をそれぞれ卒業。 陸大卒業以降、フィリピンに出征した約1年間を除き、日中戦争期間中、和平工作に従事した。1931年(昭和6年)9月、参謀本部支那班勤務となった大尉時代に、満州事変(柳条湖事件)が発生。橋本虎之助参謀本部第二部長(少将)、遠藤三郎作戦課員(少佐)、西原一策陸軍省軍務局軍事課員(少佐)と4人で、陸軍中央部から調査団として奉天の関東軍司令部に派遣され、現地で石原莞爾中佐の権勢を見せつけられた。 1931年末から1年半、中国研究員を命ぜられ、単身中国に渡り、北平(北京)・天津・上海・広東駐在の陸軍を手伝い、その後半年近く参謀本部付のまま、奉天の特務機関員を務めた。この間、暇をみつけては中国各地を旅行した。1933年(昭和8年)9月、奉天にいた今井は、田代皖一郎憲兵隊司令官の訪問を受け、「支那大陸を南北にわたって、お前ほど根気よく理解しようとしている者は少ない」と言って褒められている。同年末に東京参謀本部に戻った。1935年(昭和10年)12月に、大使館付陸軍武官補佐官、通称北京武官となり、家族と中国に赴任。 1937年(昭和12年)7月7日、北平郊外での盧溝橋事件に遭遇。不拡大派だった今井は、中国側と現地交渉を行い7月11日一時的停戦に成功。しかし同日、内地で近衛文麿内閣が出兵を決定し、中国での停戦は一時的なものとなり、事変は決着せず拡大した。同年末帰国し、参謀本部支那班長、次いで支那課長となる。陸軍大学校兵学教官も兼務した。
※この「盧溝橋事件まで」の解説は、「今井武夫」の解説の一部です。
「盧溝橋事件まで」を含む「今井武夫」の記事については、「今井武夫」の概要を参照ください。
- 盧溝橋事件までのページへのリンク