和平工作
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鈴木内閣発足前後には、政府内外で和平派による活動が活発となっていた。近衛上奏文による終戦策を進めていた外交官吉田茂(元駐英大使)が阿南の陸軍大臣就任直後の4月15日に憲兵隊に拘束された。阿南は親交のあった吉田の拘束を聞くと、自らの立場は抗戦派であったのにも関わらず、陸軍人事局以来の部下で信頼の厚かった軍事課長荒尾興功大佐を呼び「すぐに釈放せよ」と命じている。しかし、憲兵隊はすぐに吉田を釈放することなく、特に近衛文麿との関係について厳しい尋問を行ったが、吉田の拘置所内の待遇については、独房で差し入れ自由という恵まれたもので、阿南の配慮があったものとされている。吉田が黙秘を貫いたため、仮釈放は40日あまり後となった。釈放のさいに島田法務中将から「陸軍内で起訴にするか、不起訴にするか大分問題になったが、最後に阿南閣下の裁断で不起訴になった」と告げられたとしている。この事件は、上層部の和平の動きに一撃を加えて、陸軍の不退転の決意を示そうとした兵務局の抗戦派将校らが憲兵を使って吉田を逮捕させて東部軍軍法会議に送ったというのが真相であるが、阿南はこの起訴を画策した兵務局の強硬派などの一部の反対を押し切って、吉田を微罪釈放と決定している。 しかし、まだ政府内で終戦に関する議論は進んでおらず、東西から激しく攻め込まれているナチス・ドイツの命運を固唾を呑んで見守っている状況であった。ベルリンにソ連赤軍が突入してベルリンの戦いが始まり、4月22日には開設以来100年間稼働し続けていたベルリン電報局が沈黙したが、最後に受け取った電報が日本の外務省が打電した「ミナサン、コウウンヲイノル」という激励電報であった。太平洋戦線でも沖縄で激戦が続いており、この時点ではまだ連合軍に一撃を加えることを期待していた鈴木が、4月26日には首相官邸に阿南ら陸海軍首脳部を召集し、沖縄戦について「今は何があっても沖縄の作戦を成功させる」「沖縄の戦さに勝ってこそ外交政策も有効に行われるというものです」と檄を飛ばしている。昭和天皇も梅津美治郎参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と持久作戦をとる第32軍司令官牛島満中将に、攻勢を指示するように促している。 5月2日にはついにナチス・ドイツが降伏した。日本政府にとってナチス・ドイツの降伏は織り込み済みとは言え、世界の孤児となった窮状を挽回する妙案があるはずもなく“泰然として腰を抜かしている”ような状況であった。5月8日の閣議においては、「あまりにドイツに引きずられ、振り回された」「ドイツに対する態度が甘すぎた」などの意見が出され、なかには、三国軍事同盟締結の責任問題とか、奉天で軍を止めた日露戦争のように、シンガポールや南京で軍を止めれば有利な和平の機会もあったなどと愚痴のような意見もあったというが、結局決まったのは「国内動揺の抑制」「日独協定の破棄」「反戦和平の機運を高めるような報道の規制」など後ろ向きなもので、5月9日には「帝國と盟を一にせる独逸の降伏は帝國の衷心より遺憾とするところなり、帝國の戦争目的はもとよりその自存と自衛とに存す、是れ帝國の不動の信念にして歐州戦局の急変は帝國の戦争目的に寸毫の変化を与えるものに非ず、帝國は東亜の盟邦と共に東亜を自己の慾意と暴力との下に蹂躙せんとする米英の非望に対しあくまでも之を破摧しもつて東亜の安定を確保せんことを期す」とする戦争遂行の政府声明を出している。 沖縄戦においては、5月3日から開始された第32軍による総攻撃が失敗して戦況は悪化の一途をたどり、沖縄での一撃に期待をしていた昭和天皇の意思は次第に早期の和平に傾いており、内大臣木戸幸一に、「鈴木は講和の条件などについては弱い。木戸はどう考えるか。軍の武装解除については、何とか3,000人とか5,000人の軍隊を残せるよう話ができないものだろうか」と尋ねている。沖縄で勝機を掴んで和平へ、と常日頃主張し続ける鈴木の態度に苛立ちをつのらせての発言と思われたが、木戸もまだこの時点では早期の和平は考えておらず「和平とはまだ決まっておりません」と回答すると昭和天皇は黙ったままであった。 追い詰められた軍部の最大の懸念事項はソビエト連邦(以下ソ連)の対日参戦であり、外務大臣東郷に参戦防止を目的とした対ソ工作を要求した。このため5月11日、12日、14日の3日に渡って最高戦争指導会議が開催された。東郷はこの機会に軍部の抵抗が強いアメリカとの直接交渉ではなく、ソ連を仲介とする和平交渉を進めることを決意し、会議では、ソ連の参戦防止のほか、戦争の終結に関して日本に有利な条件となるよう、ソビエト連邦にアメリカやイギリスとの講和交渉の仲介を依頼することも協議された。しかし、軍部は国際感覚に乏しく、海軍大臣の米内光政などは「海軍としては、ソ連の参戦防止のほか、できればソ連の好意的態度を誘い、石油などの戦略物資を購入できればと希望する」と荒唐無稽なことを要望している。東郷は「ソ連を軍事的経済的に利用する余地などあろうはずもない。実状を知らないにも程がある。事態はもう手遅れで、現在の日本の状況では終戦そのものの手段を検討すべきである」と軍部の現状認識の甘さを指摘している。既に海軍は外務省にも内密で、独自に戦略物資と航空機の購入をソ連に要請しており、日本側から支払う代金の代わりとして、戦艦長門、空母鳳翔、重巡洋艦利根、駆逐艦数隻をソ連側に引き渡すこととし、米内の命で軍務局第2課長末沢慶正大佐が在京ソ連大使館と接触したが、ソ連側はまともに取り合わず、末沢がウォッカを振る舞われただけであった。 阿南も、講和条件についての協議で「講和条件の協議は現在の戦況に基づいて決定すべきである」「日本は、敵軍に占領されている日本領土より遙かに広大な敵の領域を占領している」と強気な発言を行い、東郷に「講和条件は、現在の戦況だけでなく、合理的に予見できる将来の戦況も考えて割り出すべきだ」とたしなめられている。それでも、ほかに手段のない日本政府は、米内の提案で条件については棚上げとしたままで、ますはソ連を講和の仲介役に引き込むことが決定された。しかし東郷は、ソ連との交渉は厳しいと考えており、独自に「南樺太の割譲」「満州鉄道の譲渡」「千島列島北部の割譲」「津軽海峡の開放」などの手土産となる条件を準備して交渉しようと考えていた。ソ連との交渉は佐藤尚武駐ソビエト連邦大使に託されていたが、ヤルタ会談によって既に対日参戦を決定していたソ連にあしらわれて、佐藤は6月9日に「日ソ友好強化は絶望的」と報告している。この後も外交努力が続けられたが、ソ連の引き延ばし策もあって実を結ぶことはなかった。
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